2012年11月16日

 

 

 

 

海 渡 り 来 て ヴ ェ ネ チ ア の 水 の 秋       由 季

 

 

 

 

溜息橋1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

溜息橋 

 

ドゥカーレ宮殿(左手)から獄舎へと架けられた石の橋。

牢獄へ送られる囚人は橋にある小さな窓から外を眺めた。

窓の風景は海へと続いている。

美しいヴェネチアが見られるのもこれが最後か、と囚人は

溜息をついたという。

 

 

 

2012年11月14日

 

 

 

朝  霧  や  眠  れ  る  街  を  ゆ  く  運  河            由 季

 

 

 

 

ヴェネチア 朝靄とゴンドラ1.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

ヴェネチアの朝 

サン・マルコ運河の向こうに

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が見える

 

 

 

2012年5月13日

 

母の日の義母にかなしきことを告ぐ   林 誠司

 

今日は母の日。

句会の帰りに寄った花舗で、めずらしい紫陽花を見つけたので

一鉢買って帰って、母に贈った。

おたふくあじさい、という花弁がぷっくりとした愛らしい紫陽花。

これからもっと色が深く出てきますよ、とお店の人が言う。

今を盛りに咲いている紫陽花よりも、これからを楽しめるものが

いいなと思って、とりわけ蕾の多いものを選んだ。

紫陽花とのこれからの日々を母に楽しんでもらえたら、嬉しい。

 

鉢を提げたまま歩く家までの道すがら、ふとこの句を思い出した。

こういうこともあるのだなあ、と。

「義母」という言葉にこの句の背景は察することができるけれど、

「義母」であっても「母」であっても、その心は変わらないだろう。

母の日に告げるかなしいことは、他のどんな日であるよりも、なんだか切ない。

それはきっと、母親という存在そのものの切なさなのだと思う。

 

 

 

2012年2月22日

 

凍てゆるむどの道もいま帰る人   大野林火

 

 

ようやく寒さが和らいできた。

果てしなく続くかに思えた今年の寒さも、

少しずつ、少しずつ、本格的な春に向けて動いているようだ。

 

駅の改札を抜けて、それぞれ家路につく人たち。

やわらかくなった風に、こころなしか背筋も伸びる。

 

待つ人がいても、いなくても。

 

やがて一つ、また一つと増えゆく家々の灯り。

 

何ともいえぬ安らぎがある。

 

 

2011年10月24日

 

好きな絵の売れずにあれば草紅葉     田中裕明

 

 

井の頭公園に行く途中に小さな画廊があって、ときどき中を覗いてみる。

もうだいぶ前になるが、ふと目に入ったクリムトの複製がどうしても欲しくなって、

さんざん迷ったあげく、思い切って購入することに決めた。

一点ものではないけれど、それでも次に来るときにはもう無いかもしれない

という不安が、決心させたのだ。だからこの句の思いがよく分かる。

とても手の届かない額の絵だったら、きっと私もこんな思いがしたことだろう。

クリムトの「抱擁」と「ユディット」はいま、部屋で静かに金色の光を放っている。

 

田中氏の好きな絵とは、何だったのだろう。

手が届かないけれど、とっても好きな一枚の絵。画廊を通りかかるたびに

その絵がまだ掛かっているのを見ては、どこかほっとしているのだ。

まだ誰のものでもない一枚の絵も、いずれは誰かのものになってしまう。

安堵からくるささやかな嬉しさと同時にある手に入れることのできない淋しさ。

その辺りの心のありようが「草紅葉」にうまく投影されていて、心ひかれる。

 

2011年9月 1日

 

九月来箸をつかんでまた生きる      橋本多佳子

 

(くがつくる はしをつかんで またいきる)

 

 

九月に入りました。仲秋の月ですね。

立秋をすぎても暑さが残っていて秋を感じるには

ほど遠いですが、九月に入るとようやく秋めいてきて、

日差しのやわらぎや風の軽さを肌で感じるようになります。

暑さで参っていた体もほっと一息つけそうです。

 

「箸をつかんでまた生きる」

箸を掴むとは、つまり物を食べるということ。

食べるということが生きる、つまり命につながっていることを強く思います。

この句は、その根源に触れながら、「また」の一語が「また頑張って生きよう」

と自らを励ましているようにも思えるのです。

心弱りをしていたり、病と向き合っていたり、

読む人の心のあり方によって、さまざまに心に響いてくる、そんな一句です。

 

折りしも9月1日は震災忌。大正12年に関東大震災の起こった日です。

多佳子自身はこの時すでに九州に嫁いでいて被災していないと思いますが、

句の背景とは別に、震災のことに思いを向けても、「また生きる」の一語には

胸に響いてくるものがあります。

 

どんなことがあっても、生きているものは死ぬまで頑張って生きていく。

結局、それしかないのだと思うのです。

 

 

 

 

2011年8月22日

 

落蝉の事切れし眼の澄みにけり      中本真人

 

(おちぜみの こときれしめの すみにけり)

 

 

落蝉は夏の季語だが、最近になってようやく落ちている

蝉を見るようになった。今年は鳴きはじめが遅かったので、

その分だけずれているのかもしれない。

 

昨日、玄関を開けたら、マンションの壁にとまって鳴いていた蝉が

落ちて「ジジジジッ」と羽を鳴らして玄関先でもがいていた。

「こんなところに落ちて」と不憫に思ったが、道路に落ちて車に轢かれて

いるのもいたから、それよりはマシだろうか。

帰宅する途中、朝の蝉のことを思い出した。 きっともう死んでしまっているなあ。

エレベーターを出て廊下を歩いていくと、玄関先に小さな影があった。

蝉はすっかり事切れて、仰向けになっていた。白くなった腹がやけに目についた。

 

落蝉はその一生と重ねるゆえか、見る人の哀れを誘う。

掲句はそこをさらりと詠んでいるが、実際の落蝉を見て

「眼の澄みにけり」とは言えそうでいてなかなか言えるものではない。

命を全うした蝉に潔さを感じたからこそ、「澄む」の一語が出てきたのだろう。

 

 

2011年8月15日

 

原色のシャツに横文字終戦日     西尾照子

 

 

昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結。日本の敗戦が告げられた。

今日は8月15日。

終戦記念日だが、記念日という言い方には少しく抵抗がある。

原色のシャツに書かれた横文字。現代では当たり前のように巷に溢れて

いる光景だが「終戦日」に思いをはせてみるとその原色のシャツは

まるでアメリカの象徴であるかのようだ。

じりじりと照りつける日射しと原色の鮮烈さが

「終戦日」の裏にある「敗戦」の二文字とその思いを浮かび上がらせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年8月 8日

 

けさ秋のわれより翔ちし鳥の影           由季

 

 

 

 

2011年8月 2日

 

夏雲や十円で買ふ「悪の華」     由季

 

 

 

 

 

2011年7月21日

 

これ以上愛せぬ水を打つてをり        由季

 

 

 

 

2011年7月20日

 

ポンプ井戸押せば夏日のほとばしる      由季

 

 

 

 

2011年7月17日

 

風鈴に星のかけらの音混じる        由季

 

 

 

 

2011年7月 5日

 

黒揚羽来て風音の段葛       由季

 

(くろあげはきて かざおとのだんかずら)

 

 

 

 

2011年6月17日

 

青葉梅雨とととととペン走りけり       由季

 

 

 

2011年6月14日

 

さみだれの電車の軋み君が許へ       矢島渚男

 

(さみだれの でんしゃのきしみ きみがもとへ)

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電車に乗って、待ち合わせの場所へと向かう。

車窓を流れる雨の景色に目をやりながら、思うことはただ一つ。

「はやく君に逢いたい」

 

「さみだれ」は「五月雨」。梅雨に降る雨そのもののこと。

カーブにさしかかるたびに軋む電車の音が、逢いたさに逸る気持ちを

一層駆り立てる。「さみだれ」「軋み」が恋の最中の心中をあらわしているようで、

胸に響く。恋の初めは誰しもこんな思いをしたことがあるだろう。逢えることが

当たり前ではなく、そのひとときのためにすべてがあるように思えるような。

そして「君が許へ」。この言い方がとても好きだ。相手に対する気持ちがここにも

出ているように思える。

短歌と比べて俳句で恋愛を詠むのは難しいというが、この句を思うたびに

そんなことはけっして無いと私は思う。感情表現を一切入れなくても

「さみだれの電車の軋み」だけで充分思いが伝わってくる。

恋愛においても俳句の寡黙さが寧ろいいということもあるのだ。

 

 

 

 

 

2011年6月 6日

 

六月の光を紡ぐごとく住む       由季

 

(ろくがつの ひかりをつむぐ ごとくすむ)

 

 

 

 

 

 

2011年5月27日

 

あぢさゐにある海のいろ空のいろ        由季

 

(あじさいにある うみのいろ そらのいろ)

 

 

 

2011年5月26日

 

水鏡してあぢさゐのけふの色       上田五千石

 

(みずかがみして あじさいの きょうのいろ)

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紫陽花の花が色づき始めた。

どの花でも咲く前と咲いた後では気づき方が違うけれど、

紫陽花の咲き方はとりわけ、その差に驚く。鞠となる花が大きいからか、

突如としてそこに現れたような、そんな不思議な思いがするのだ。

紫陽花はまた咲き始めと終り頃では色が変わる。それが「七変化」とも

言われる由来で、だんだんと色づくその色彩は水彩画のグラデーションのよう。

「水鏡」とは水に鏡のように物が映ること。

水鏡という毀れやすいもにに、紫陽花の「けふの色」が映っている

というところがいい。そう言われることによって、明日はもう違う色を

見せているのかもしれないという、命の移ろいを意識させるからだ。

「けふの色」は今日しか見ることのできないもの。

忙しい日々の中で、そんな当たり前のことをつい忘れてしまいそうになる。

この句は、詠みとめられた美しさの中に、「いま、ここ」に心を留めることの

大切さを気付かせてくれるのだ。

 

 

 

 

2011年5月25日

 

はなびらの垂れて静かや花菖蒲     高浜虚子

 

(はなびらの たれてしずかや はなしょうぶ)

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一幅の日本画のように切り取られた花菖蒲の美しさ。

風もなく、静止したはなびらが虚空に浮かぶ。

花菖蒲はあやめやかきつばたに比べてはなびらが

大きいので、「垂れて」の一語が花菖蒲の存在感を表わしている。

 

一見見分けにくいあやめ、かきつばた、花菖蒲だが、花弁の元の

ところを見ると判別がつけやすい。あやめは綾目模様で、杜若は白、

花菖蒲は黄色。あやめだけが乾燥したところに咲く。

花の区別ならこれでつくのだが、紛らわしいのは作品の上での判別。

昔は「菖蒲」と書いて「あやめ」と読んでいたので、「あやめ」とあっても

詠まれている花が実際にはあやめなのか花菖蒲なのか、紛らわしいのだ。

「なつかしきあやめの水の行方かな  虚子」は咲いている場所から思うと

きっと花菖蒲の姿だろう。

 

 

 

2011年5月18日

 

けふよりの風の高さや今年竹       由季

 

 

 

 

 

 

2011年5月12日

 

筍の光放つてむかれけり    渡辺水巴

 

(たけのこの ひかりはなって むかれけり)

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今は筍が美味しい季節。

掘り立ての筍をすぐにお刺身にして食べるのが

旬ならではの贅沢だが、なかなかこの贅沢にはありつけない。。

 なにせとってから二時間ぐらいが勝負の楽しみなのだ。

十二単を着ているかのように、厚い皮に覆われた筍の皮を

一枚、一枚剥がしていく。

筍の白々とした肌が見えてくるまではなかなか時間がかかるものだが、

「光放つて」には、筍の明るさを表わすとともに、ようやく見えてきたその姿に

はっとするようなよろこびを感じさせる。

 

 

 

2011年5月10日

 

まほろばの風はるかより更衣     由季

 

(まほろばの かぜはるかより ころもがえ)

 

 

 

 

 

2011年4月27日

 

チューリップ喜びだけを持つてゐる     細見綾子

 

並んで風に揺れているチューリップの姿は、春の訪れを喜んで

一斉に歌っているように見える。原色の花々の明るさは目に眩しく輝く。

一点の陰りや憂いもなく、まさに喜びだけを持って咲いているようだ。

チューリップのもつ愛らしい姿が童女の心で詠みとめられている。

 

以前つとめていた出版社の本でこの句を載せたとき、

入力の間違いで、「チューリップ喜びだけを待つてゐる」となって

ゲラが出てきたことがあった。寸前のところで気が付いたのだが、

「待つてゐる」も句として成立するよね、これはこれでまた違った魅力がある。

とみんなであれこれ言っていた編集部でのやりとりを懐かしく思い出す。

たった一字の違い。

「待つてゐる」チューリップは待つ時間の分だけ、少し寂しいかもしれない。

 

 

 

 

2011年4月26日

 

桜蘂ふる一生が見えてきて      岡本 眸

 

(さくらしべふる いっしょうがみえてきて)

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もう葉桜となった木々もあるが、遅咲きの花は今はらはらと紅の蘂を降らせている。

この頃になると、いつもこの句を思い出す。

「一生が見えてきて」とはどういう情景だろう。

作者がいつの歳に詠まれたのかは知らないのだが、

20代の頃の私は、恐らくある程度年を重ねた人の感慨なのだと思っていた。

一生が見えてくるなんて、簡単には言えないように思えたからだ。

30代の今、この句はまた違って見えてくるようになった。そしてとても共感を覚える。

まさに自分の向き合っている年齢での感慨なのではないかと思えるのだ。

桜の木の一生を人生と重ね合わせても、桜蘂の降る頃は晩年ではない。

満開の花の頃を過ぎて、あまり美しいとは言えない桜蘂の頃の翳り。

葉桜となればまた新たな命が動き出すかのようにまぶしい季節が訪れる、

その束の間の季節の憂いがあの一語を引き出したのではないか。

夢見る季節は過ぎてしまった。

一生が見えないということは不安だが、見えてしまうということはもっと淋しい。

 

さくらしべ降る歳月の上にかな   草間時彦

この句は佇む作者の年輪を感じさせる。

どちらにしても、「桜蘂降る」という季語は「桜」とはまた違う歳月を呼び起こすようだ。

 

 

 

2011年4月 7日

 

花待てば花咲けば来る虚子忌かな      深見けん二

 

明日4月8日はお釈迦様の生まれた日を祝う花祭。

そして虚子の忌日。

この二つはひとくくりに覚えているので、忘れることがない。

<ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎのもちづきのころ>

と詠んだ西行は、その歌と違わずに陰暦2月16日の釈迦涅槃の日に入寂した

と云われるが、虚子は釈迦が誕生した日に世を去った。

自ら選んだわけではないのに、凡人にはない何物かの力を感じずにはいられない。

 

掲句、膨らみかけた桜の莟にまもなく近づいてくる虚子の忌日を思い、

心の準備をして、そしてその日を迎える。

「花待てば花咲けば来る」からは作者にとって虚子の忌日がいかに大きく、

そして大切なものであるかが伝わってくるのである。

なんとも美しく、尊い師弟愛だと思う。

 

 

 

 

 

2011年4月 5日

 

初桜鳥がはこびて来しと言ふ       由季

 

 

 

 

2011年4月 1日

 

人はみななにかにはげみ初桜       深見けん二

 

(ひとはみな なにかにはげみ はつざくら)

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初桜とはその年に初めて咲いた桜のこと。初めて出会った桜の花ということ。

「ああ、今年も桜が咲き始めたなあ」という花に出会えた喜びがそこにはある。

俳句では花と言えば桜のことを言うが、花を待つ心というのはいつになっても

変わることがない。桜は日本人にとって特別な花だ。

そして桜の花ほど、日月のめぐりを感じさせてくれるものはない。

あと何回桜の花を見られるだろうか。そんな話が交わされるのも桜ならでは。

 

今年もまた桜の花が咲き始めた。

「人はみななにかにはげみ」という言葉が心に沁みる。

本当にその通りだと思う。

そしてそれは、「生きていく」ということと同義なのだと気付かされるのだ。

 

 

 

2011年3月25日

 

朝空のすでにおほぞら花辛夷      林 誠司

 

(あさぞらの すでにおおぞら はなこぶし)

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辛夷が咲きはじめた。

空に日がのぼっては朝が来る。

一日の始まりの明るさが、この句には満ち溢れている。

「すでにおほぞら」とは訪れた春を讃える作者の心情であろう。

青空に触れるかのようにのびのびと咲く辛夷の白。

色彩のコントラストも美しい。

 

 

 

2011年3月24日

 

白木蓮空の青さに咲き揃ふ      由季

 

(はくもくれん そらのあおさに さきそろう)

 

 

 

 

2011年3月20日

 

さんしゆゆの薄き光や余震なほ        由季

 

(さんしゅゆのうすきひかりや よしんなお)

 

 

 

 

2011年3月18日

 

いぬふぐり祈祷の長き列に蹤く      由季

 

 

 

 

2011年3月10日

 

春の山生きるものとは光るもの       由季

 

 

 

 

2011年3月 8日

 

来て見ればほゝけちらして猫柳    細見綾子

 

(きてみれば ほうけちらして ねこやなぎ)

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川辺にある猫柳。早春、春の訪れを告げるように花穂を出しはじめる。

あたたかい日差しに誘われて近くの川べりを歩いたのだろう。

猫柳がここにあることを知っていたのかもしれない。

来てみたら、猫柳がほうけちらしていたという素直な気持が

そのまま一句になっている。

「ほほけちらして」は漢字で書けば「惚け散らして」ということ。

あの銀白色の花穂がしだいにほうけて、白っぽくぼんやりした花穂に

なるものだと思っていたのだが、調べてみたら違っていた。

猫柳は雌雄異株で、銀色の花穂は雄花で、惚けたように見える

白っぽい花穂は雌花だった。

「ほゝけちらして」と感じたのは雌花の花穂だ。

綾子がそれを知っていたかどうかは分からないけれど、

この句においてはそのことはあまり重要ではない。

惚けちらした、あまり美しくもない猫柳の姿をそのまま詠んだところが

この句の良さなのだから。

飾らない表現が、俳句の上では深く心に残ったりするものだ。

何ということもないのに、忘れない一句のひとつ。

 

 

 

2011年3月 3日

 

紙雛の男雛のたふれやすきこと        由季

 

(かみびなの おびなのたおれやすきこと)

 

 

 

 

2011年3月 2日

 

紅梅や凍えたる手のおきどころ      竹下夢二

 

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画家で詩人でもあった竹下夢二の俳句。

 

青鷺にかりそめならぬ別れかな

跫音をまつ明暮や萩の花

夕立や砂にまみれし庭草履

 

夢二の句にある余韻は美しいと思う。

俳句においても夢二の世界がきちんとある。

一段と身にこたえる春になってからぶり返す寒さ。

紅梅の赤が灯るように浮かぶ。

「凍えたる手のおきどころ」というのがどこか夢二らしい。

想い人の温もりをその手の先に求めていたのだろうか。

ふと、そんなことを想像してみたりるするのである。

 

 

2011年2月28日

 

木の芽風足を投げ出しゐる少女      由季

 

 

 

 

2011年2月21日

 

いちまいの水となりゆく薄氷      由季

 

 

 

 

2011年2月20日

 

氷に上る魚木に登る童かな    鷹羽狩行

 

(ひにのぼるうお きにのぼるわらべかな)

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「氷に上る魚」は「魚氷に上る」(うおひにのぼる)のことで、

七十二候の一つである初春の季語。

春のあたたかな日に湖に張った氷が割れて魚が氷の上に踊り出る、

そんな陽気の頃を表わしている。

二十四節気七十二候は古代中国で考えられた季節を表わす言葉で、

二十四節気(立春、啓蟄、立夏などと呼ぶ方)は古代中国で用いられていた

名称がそのまま現在でも使われているが、七十二候の方は日本に伝わって

から日本の風土に合う表現へと改訂され現在にいたっているそうだ。

ただ、歳時記で季語として使われているものはすべて古代中国の名称のもの。

「魚氷に上る」は日本版も古代中国版も同じ名称だが、例えば啓蟄の第三候

にあたる「鷹化して鳩となる」は日本版では「青虫が羽化して紋白蝶となる」

という風になっているし、雨水の第一候の「獺魚を祭る」も「雨が降って土が湿り

気を含む」という意味のものに変っていて、日本の方がより現実的だ。

古代中国の方が遊び心があって断然面白い。

さて、掲句、その七十二候を用いた句だが、「のぼる」を介して魚と子供を氷と木に

対比させた表現が巧み。ただ、ややもすると言葉遊びのみに陥るきらいがあるが、

そこをうまく避けているのは、季節感をきちんと捉えた情景の描写がなされて

いるからだろう。春の陽気に誘われて、木登りをしている子供たちの姿が

一句からはちゃんと見えてくる。

 

 

 

 

2011年2月18日

 

木の芽出づささくれ浪に安房の岬      角川源義

 

(このめいず ささくれなみに あわのさき)

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安房は今の千葉県の南端のあたり。

「ささくれ浪」というのが何ともいい。

ささくれ、という響きは痛そうだが、景としては卯波ほどでなく、

ささくれほどにところどころ白波がたっているのだ。

春先の風の強さを彷彿とさせつつも、春ならではの軽さを

感じさせるところがある。春とはいえ、海風はまだ肌に冷たいことだろう。

木の芽がつんつんと出はじめる頃の春浅き自然の息吹が

岬の景にうまく描きとられている。

 

 

 

 

2011年2月15日

 

投げるでもなくて礫に春の雪      由季

 

(なげるでもなくてつぶてに はるのゆき)

 

 

 

 

 

2011年2月14日

 

床に落つ金銀バレンタインの日        由季

 

 

 

 

 

2011年2月11日

 

春の雪地につくときのこゑかすか     由季

 

 

 

 

2011年2月10日

 

女身仏に春剥落のつづきをり       細見綾子

 

(にょしんぶつにはるはくらくのつづきおり)

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外は春雪の舞い降る冷え冷えとした堂内でこの像を仰ぎ見たのは

この立ち姿に脈打っているものを感じた。黒い乾漆が剥げて下地の

赤い色が出ている。そのことの生々しさ、脆さ、生きた流転の時間、

それらがすべて新鮮そのものであった

 

綾子自身がこの句について語った言葉。

初案は「伎芸天に春剥落のつづきをり」であったという。

伎芸天とは、奈良の秋篠寺にある伎芸天。

その姿を初めて目にしたとき私は言葉が出なかった。

薄暗い堂の中でずいぶんと長い時間伎芸天を見つめ、

そしてその間中ずっと、体の芯が疼いていた。

仏像を見て官能を刺激されるという体験はこれが初めて。

それほどに、伎芸天の姿は艶かしく、美しかった。

 

見えるものとして、また見えないものとして、剥落は今もつづいている。

 

あえて女身仏といったのはこの伎芸天への永遠の美しさへの讃歌である

 

綾子が「女身仏」としたことで、剥落はひときわ美しさと儚さを増したようだ。

ちょうど今頃だろうか。

春の雪が舞ふ最中の伎芸天に、私も会いに行きたくなった。

 

 

 

 

 

2011年2月 7日

 

薄氷の吹かれて端の重なれる      深見けん二

 

(うすらいの ふかれてはしの かさなれる)

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うっすらと張った湖面の氷。

春先の陽気でところどころ解けて浮いている薄氷が

風に吹きよせられてその端と端が重なった。

 

写生の極致であり、そして写生を超えた句だと思う。

実際に見ていてもこの景を見逃さずに詠むことは難しいし、

それを言葉で切り取ることはもっと難しい。

「重なれる」の一語に脱帽。

こんな句を詠んでみたいものだ。

 

 

 

2011年2月 4日

 

飛ぶ鳥をとどめて春の木となりぬ       由季

 

 

 

 

2011年2月 3日

 

凍雪を踏んで柊挿しにけり    高野素十

 

(いてゆきを ふんでひいらぎ さしにけり)

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今日は節分。冬と春の季節を分ける日です。

節分の翌日は立春で暦の上では春になります。

節分と言えば豆撒き。

家族みんなで「鬼は外、福は内」と言いながら豆を撒く。

季節の変わり目は邪気が入りやすいのだそうです。

だから「鬼は外」の鬼は邪気でそれを払うために豆を撒くのですね。

豆を買うとついてくる鬼の面って昔話に出てくる鬼みたいで、

季節の変わり目とあの赤鬼の姿があまり繫がらなかったのですが、

邪気を見た目にわかり易いように鬼の姿に転じたものなのでしょう、恐らく。

 

「柊挿す」というのも節分の行事。

焼いた鰯の頭や柊を戸口に挿し、その匂いや刺で邪気を払うというもの。

テレビで見たことがあるくらいで、実際にしたことも見た事もありませんが、

豆撒きよりももっと古き良き伝統行事という感じがします。

でも、焼いた鰯の頭を玄関に挿しておくのは都会ではちょっと難しそう。

なにしろ邪気を払うほどの匂いなのですから ^^;

 

掲句は雪の残る中で迎えた節分。

凍雪を踏んで邪気を払うための柊を挿した。

ただそれだけの景ですが、その静けさの中に、

日々の暮らしぶりというか心のあり方のようなものが

感じられて余韻のある句です。

 

 

 

 

2011年2月 2日

 

叱られて目をつぶる猫春隣      久保田万太郎

 

(しかられて めをつぶるねこ はるどなり)

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もうすぐ春がやってくる。

この句の季語は「春隣」。字から見てもわかるように、

春がもう隣(というほど近く)に来ているということ。

「春」という言葉が入っているけれど、季節はまだ冬。

晩冬の季語だ。

同じ頃をあらわす季語に「冬終る」というのがあるが、

季語から受ける印象は大きく違う。

どちらも厳しい冬が終わることに違いはないが、

「春隣」には春の兆しを実際に身に感じている明るさがある。

日の光や空の色、肌に触れてゆく風に春へ移りゆこうとする

季節の変化を感じている心の明るさ。

 

叱られた猫は飼い猫。野良猫では目をつぶる前に逃げていってしまう。

何か悪さをして、ご主人に大声を出されたのだ。

反射的にきゅっと目をつぶる猫。

その姿が何とも愛らしい。

叱ったご主人も、そんな姿を見ながら、「まったくしょうがないな~」

としぶしぶ許してしまうのである。

そんな情景を想像させてくれるのも、春隣という季語ならでは。

この猫は、万太郎の猫なのだろうか。

それにしても、万太郎は季語の付け方が本当に上手い。

 

 

 

2011年1月28日

 

ふくらみしままの泪や藪柑子     神田ひろみ

 

(ふくらみしままのなみだや やぶこうじ)

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小さな子の泪は、どうしてあんなに綺麗なんだろう

と思うほど、大きな粒となって溢れ出てくる。

こぼれずに、目を潤わせながらふくらんでいる泪の粒。

 

地面に近いところに赤い実をつける藪柑子。

その丈の低さが子供の目線に合わせてしゃがんでいる

お母さんの姿を想像させてくれる。

 

ぼろっと零れ落ちそうな泪の粒が藪柑子の丸いかわいらしい実とも

通い合うようだ。

 

 

 

 

 

 

2011年1月27日

 

三寒の四温に響く槌の音        由季

 

(さんかんの しおんにひびく つちのおと)

 

 

 

 

2011年1月24日

 

白鳥の胸を濡らさず争へり       吉田鴻司

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縄張り争いか恋の争いか。二羽の白鳥が向かい合って

純白の羽を羽ばたかせている。

 

胸を濡らさず争へり

この気高さが素敵だ。矜持というものを思う。

作者が感じたその姿への憧れ。

そしてかくありたいと、自分も思う。

 

 

 

 

 

白鳥の羽の喝采やまざりし      由季

 

 

 

 

2011年1月23日

 

石垣に日の移りゆく寒の梅       由季

 

 

 

2011年1月21日

 

水仙や古鏡の如く花をかかぐ     松本たかし

 

(すいせんや こきょうのごとく はなをかかぐ)

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「古鏡」とは古代の金属製の鏡。青銅や白銅で鋳造したものの表面を

磨き上げて光の反射で映るようにしたものだ。

古代の人がそこに顔を映して眺めていたものだと思うと、発掘されて

展示されている古鏡を見るたびに古に思いを馳せ、言い知れぬ心地になる。

 

「古鏡の如く」。

こんな比喩をしてみたいという憧れの句。

水仙の花の形と纏っている静謐な空気が「古鏡」を呼び寄せたのであろうが、

その比喩はありきたりでなく、また離れすぎていもいない。

互いの魅力を引き出すような比喩だ。

それに「花をかかぐ」という措辞がその比喩を映像として引き立てている。

 

響き合う水仙と古鏡。

水仙はただの水仙ではなくなり、古鏡には命が吹き込まれる。

 

 

 

 

2011年1月19日

 

さきがけの花のこぼるる寒の梅        由季

 

 

 

 

 

 

2011年1月18日

 

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり   日野草城

                                     『人生の午後』

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句集『人生の午後』は昭和28年に刊行された第7句集。

31年に54歳で亡くなった草城晩年の作品が並んでいる。

21年に病に倒れてから、亡くなるまでの満10年間、ほとんど寝たきりの生活

であったから、この句集も病床で詠まれたものだ。

あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。

寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。

それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。

冬薔薇に投影された草城の志が一句を貫いている。

10代で「ホトトギス」雑詠に入選し、20歳で巻頭をとり、また23歳の若さで

「ホトトギス」課題句選者に推されるという、他に例を見ない躍進をした草城の

スタートはまさに順風満帆であった。

 

春の夜やレモンに触るる鼻のさき

春の灯や女は持たぬのどぼとけ

 

などの垢抜けた表現や、艶のある句を詠んだ草城の新しさには右に出るもが

いなかったであろうし、物議を醸した「ミヤコホテル」の連作も、その軽い甘さには、

現代の感覚に通じるものがある。けれども、戦争という時代の波は容赦なく襲いかかり、

次第に高まっていく言論弾圧の風潮の中で、華々しかった俳句人生の中断を余儀なく

された。

約4年の空白を経て再び俳壇へ戻ってきたのは昭和21年。

草城の再スタートは病に倒れた年でもあった。

 

切干やいのちの限り妻の恩

初咳といへばめでたくきこえけり

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 

 『人生の午後』に収められたこれらの句には、かつての草城が見せた華やかな世界

は無い。病に臥し、職を失った清貧のくらしの中で、かつての華やかさと引き換えに

得たものは、あるがままの自分を詠むことだったのだと思う。

病臥の10年は、新しい草城を生み出した。そして死の間際まで俳句を詠みつづけた

という草城の生き方に、冒頭の句の潔さが重なるのである。

 

                          同人誌「気球」2006号(終刊号)より転載

 

 

 

 

 

 

 

                              

2011年1月14日

 

村中の風を集めてどんど焚く     高橋悦男

 

(むらじゅうの かぜをあつめて どんどたく)

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「どんど」は小正月に行われる行事で、14日の夜、または15日の朝に

木や藁などで組み上げたやぐらの中に正月飾りや書き初めなどを入れて

焚きあげ、無病息災や五穀豊穣などを願う。

 

今年も三が日明けの伊豆の海辺や、東京に戻ってきてからの多摩川の河川敷で

どんどの櫓が作られているのをいくつも見かけた。

こういう風景を見ると、うれしい。

私は河川敷でのどんど焼きに参加したことはないが、小学生の頃に学校の校庭で

どんど焼きをしたことを懐かしく思いだした。

みんなで書き初めを入れたり、願いごとを書いた短冊を入れたり、もちろん正月飾りも

たくさんかけられてあった。だるまや竹をいれると、大きな音を立てて勢いよく爆ぜる。

その音に大騒ぎしながら、炎を上げる櫓を囲んで楽しんだ。

 

関東ではどんど焼きというけれど、東海地方より西では「左義長」(さぎちょう)と呼ぶ。

これは俳句を始めてから知ったこと。

 

今日もどんどを囲んでにぎやかな年神さまを空に送る行事が行われることだろう。

掲句は小さな村ごとのどんど焼きだろう。

みんなが正月飾りを持ち寄って高く積み上げられたどんど。

「村中の風を集めて」が、そんな村の和やかな景色を想像させる。

 

 

 

2011年1月13日

 

天地の息合ひて激し雪降らす      野澤節子

 

(あめつちの いきあいてはげし ゆきふらす)

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北では雪が猛威をふるっている。

雪しまく、という言葉があるが、そんな雪の景を思う。

 

節子の迸る詩情が捉えた、激しい雪の景。

「天地の息合ひて」というスケールの大きさには圧倒される。

人智で測ることのできぬ自然の力と、そこに少しく滲む官能。

「激し」とは雪の激しさとともに、節子の内に抱えるなにものかの激しさでもあるのだろう。

なにものか、と言ったのはありきたりに限定したくないという思いがあるからだが、

例えばそこに、カリエスを患って寝たきりとなっていた節子の生への強い希求が

あるといえば、言えなくもない。

自らのうちに鬱屈した何かを抱えているとき、

外側の激しさは時にそんな何かを薄れさせ、癒してくれることがある。

「天地の息」が激しくぶつかって降らしくるその雪は、なにものかを癒すかに

しずかにしずかに降りつづいているようにも思う。

 

 

 

 

 

2011年1月11日

 

三日月の光る鼻梁の凍りけり     野澤節子

 

(みかづきの ひかるびりょうの こおりけり)

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昨夜の空にかかっていた三日月は美しかった。

ハッと心を動かされて、カメラのレンズを空に向けてみたけれど、

映し出されたデジタルの画面に、同じ月は写っていなかった。

 

鼻梁とは鼻筋。

すっと通った鼻筋のように、繊細な三日月が漆黒の夜空に輝く。

美しくも、鋭いその輝き。

純度の高いプラチナのような輝きが冴え冴えと見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

2011年1月10日

 

日だまりや梅のかをりに人動き     由季

 

 

 

2011年1月 8日

 

松過ぎの一日二日水の如       川崎展宏

 

(まつすぎの いちにちふつか みずのごと)

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松過ぎは、松納め、飾り納めをして門松や注連飾りを取ってから

しばらくの間の日数のこと。

松の内ではないとはいえど、まだどこかしらその名残を宿しつつと

いった趣をこの松過ぎという時間には感じる。

でも松の内の一日、一日とそれを過ぎてからの日数では

一日の重さが違うのだ。正月から三日間は三が日と言って新年の来客や

行事があったり、四日からは仕事始めで年始のご挨拶があったりとだいたい

7日頃までは日にちに合わせての動きがある。

一日、一日がどこか立っているように感じられるが、松過ぎともなると

そのあたりが次第に緩んでくるのだろう。

一日、二日が水の如くに過ぎてゆくというのは、なるほど巧いことを言うものだ。

気付いたら一日二日経ってしまっていたという松過ぎへの感慨がさらりと過ぎ行く

水の早さに託されてうまく出ているように思う。

松過ぎという言葉の持つ静けさが「水」と響き合って、音無く過ぎ行く時の流れをも

感じさせてくれるようだ。

 

 

 

 

2011年1月 7日

 

ゆつくりと翡翠の色や薺粥      由季

 

 

 

 

 

2011年1月 4日

 

春著着て手にするものに飽きやすく     阪西敦子

 

(はるぎきて てにするものに あきやすく)

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春著は新春に着るために新しく作った晴着のこと。

現代の生活では薄れゆきつつあるが、着物を新調とまでは

いかなくても、新年を迎える気持ちとともに、身につける

ものも新しくしたいという思いはある。

もちろん現代でも初詣などで晴着を着ている人に出会うことが

あるが、やはり正月の晴着はいいものだ。

掲句、春著という華やかなものを身にまとって、どこか気がそぞろ

になっている感じが「手にするものに飽きやすく」から伝わってくる。

「飽きやすく」は別につまらないからではない。

飽きやすいのは意識がそこに集中しないからだ。華やぎのなかの

そわそわしたあの何とも言えぬ感覚が巧く捉えられていて、

着ている女性の心のうちまでもそこはかとなく伝わってくる。

 

 

 

2011年1月 3日

 

いづくともなき合掌や初御空     中村汀女

 

(いづくともなきがっしょうや はつみそら)

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初御空とは、元日の大空。ほかに初空とも言う。

「はつみそら」という言葉はなんて美しいのだろうと思う。

空を讃える「み」という音の響きがとても好きだが、それは「美」

という音にも通じていて、華やいだ美しさを感じさせてくれる。

新しい年の始まりの空と思うと、その空の青も、そしてその空を

見上げる人の心も常とは違って見えてくる。

とりわけ雲一つない好天の初御空に恵まれると、

それだけであたりにまで淑気が満ちてくる心地だ。

掲句の初御空もこの上なく清らかな青空だったのだろう。

年の始まりの空の清らかさにありがたさが溢れてきて

思わず合掌したのである。

初詣の神社などへの合掌ではなく、空という大きなものへの合掌。

この「いづくともなき」がなんともいい。

頭上に広がる空を感じながら、ただ静かに目を閉じて手を合わせているのである。

 

 

 

2011年1月 1日

 

手に受けて真澄の鈴の破魔矢かな     由季

 

 

 

 

 

2010年12月30日

 

初雪の天のひとひら手に掬ふ      由季

 

(はつゆきの てんのひとひら てにすくう)

 

 

 

2010年12月29日

 

羽音もう聞こえぬ高み風邪心地     髙柳克弘

 

(はおともう きこえぬたかみ かぜごこち)

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 風邪心地というよりも、よくなったかと思うとまたぶり返す風邪に

困っていますが、風邪を引くといつも思い出す一句。

 

風邪の引き始めのだんだんと五感が遠のいていく感じと

薄れゆく羽音がよく響き合っているところがいい。

もっといいと思うところは「高み」としたところ。ここが巧い。

それによって、しっかりと映像として大空を羽ばたいてゆく

鳥の姿が見えてくる。聴覚のみでは鳥の姿が見えてこない。

「高み」という浮遊感覚も風邪心地の季語をより魅力的に生かしている。

空を見上げ、遠ざかりゆく鳥の姿を目で追いながら、どこか自分だけが

取り残されてしまったような気分。風邪心地にはそんな淋しささえも滲む。

 

2010年12月27日

 

数へ日の欠かしもならず義理ひとつ    富安風生

 

(かぞえびの かかしもならず ぎりひとつ)

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「数へ日」とは年内も残りわずかとなり、指折り数えるほどの日数となる頃のこと。

指折り、というのだから十日も切れば数え日といってもいいのだろうが、

実感としてはあと四、五日という頃だろう。年内に済ませておくことを

こなしつつ、新年を迎える用意も抜かりなく、という年の瀬の慌しい頃だ。

そういえば、「もういくつ寝るとお正月~」という歌があったけれど、

最近ではあまり聞いたことがない。この歌に歌われているお正月の風景は

もうどこか遠い世界のようだ。

歌の中では来る年を今か今かと心待ちにしながら残りの日数を数えているが、

「数へ日」のそれは、ゆく年を惜しむ感慨でもある。

 

特別に世話になった人なのだろう。年の瀬の慌しさの中、他のことは不義理を

しても、そのことだけは欠かすことなく続けている義理。

具体的なことは何も言ってはいないけれど、「義理ひとつ」には

世話になった方が亡くなったあとも、その奥様への歳暮のご挨拶は欠かさずに

伺う、というような義理を想像させる。それは日本人の心からだんだんと薄れて

いきつつある義理ではないか。それほどに「ひとつ」の一語は、作者の特別な

思いを感じさせるのである。

 

 

 

2010年12月26日

 

寒禽の強く短く枝渡る   山田節子

 

(かんきんの つよくみじかく えだわたる)

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冬の清澄な大気を切るように、俊敏に動く冬の鳥。

冬はその寒さゆえか、野性に生きるものたちの命が

より一層輝いているように見える。

枝を渡りゆく姿にさえも心を奪われてしまうのは、

そこに光るものを感じたからだろう。

その光とは生きる強さといってもいい。

「強く短く」には寒禽の命そのものが詠みとめられている。

 

作者は「海」の大先輩。私が入会した頃に同人会長をされていたが、

間もなくして病に倒れ世を去られた。若輩ものの私をいつも優しく迎え入れて

くださったその穏やかなお顔が今でも浮んでくるが、俳句が大好きで、あとあと

聞いた話では、「俳句の鬼」と言われていたという。

一度も句座をともにしないうちに逝かれてしまったことが残念だ。

「俳句の鬼」。そんな風に言われる人はいくらも居ないだろう。

惜しい人を亡くしたものだと、今しみじみと思う。

 

 

 

 

2010年12月24日

 

イブの夜のイコンのごときカフェの窓      由季

 

 

 

 

2010年12月23日

 

かいつぶりさびしくなればくぐりけり    日野草城

 

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かいつぶりは鴨よりも小さな水鳥で、水面にもぐって小魚や蝦をとる。

湖や公園の池を眺めていると、ぱっと潜っては少し離れたところから

ぴょこんと顔を出すかいつぶりの愛らしい姿を見ることができる。

どこか得意気にも見えるその姿を、作者は「さびしくなればくぐりけり」という。

さびしさに耐えかねて潜る。まるで一人遊びをしているように。

夕暮れ時の人もまばらになった静かな湖の景が浮んでくる。

一句の思いは、かいつぶりに託された作者自身の心境だろう。

水面に潜るというかいつぶりの行為に、自分の中でしか解消しえない、

作者自身の心の内の寂しさが重なる。

 

 

2010年12月22日

 

動かして柚子湯の香りあらたまる      由季

 

 

 

2010年12月21日

 

柚子風呂に妻をりて音小止みなし    飴山 實

 

(ゆずぶろに つまおりておとこやみなし)

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明日は冬至。二十四節気の一つで、昼の時間が一年で最も短い。

冬至の日には、無病息災を願って冬至南瓜を食べたり、柚子湯に入る。

湯舟に浮かぶ柚子の明るい黄色と湯気とともに立ち上がる清々しい香。

湯舟に浸かるだけで不思議と身が改まる心地がするものだ。

柚子湯というと、その香や色彩が詠まれがちだが、掲句は「小止みなし」

と音に注目して詠まれているところがいい。

少し長いお風呂で心配をしたのかもしれない。耳を澄ますとちゃぷちゃぷと

いう音が風呂場から聞こえてくる。その音は、柚子を動かしては香りを楽し

んでいる妻の姿を想像させる。「音小止みなし」にはその音を聞きながら

安堵している作者の姿が見えてくる。

そしてそんな妻の姿を愛おしく思うやさしい気持ちが同時に感じられるのである。

 

 

2010年12月20日

 

此木戸や錠のさされて冬の月    其角

 

(このきどや じょうのさされて ふゆのつき)

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錠がさされて閉ざされた厚い城門。その上には皓皓と冬の月が照っている。

「此木戸や」のような上五の置き方は、現代の俳句ではあまり使われない。

そのもったいぶった感じにはむしろ新鮮なほどたっぷりとした諷詠がある。

「木戸」とは城門。

『去来抄』にこの句にまつわるエピソードが書かれている。

其角は下五を「冬の月」にするか「霜の月」にするか迷っていた。

そこで掲句を芭蕉に送り、その旨を書き添えたところ、文字が詰まっていたため、

芭蕉は「此木戸(このきど)」が「柴戸(しばのと)」と読めた。それゆえ、

其角ほどの人がどちらにしようかと思い煩うほどの句ではないとして

「柴戸や錠のさされて冬の月」として『猿蓑』に入集したが、あとあと「此木戸」で

あったことに気がつき、「柴戸にあらず、此木戸なり。かかる秀逸は一句も大切な

れば、たとえ出板に及ぶとも、いそぎ改むべし」と、大慌てで指示したという話。

芭蕉の読み間違えが発端なのだが、そのことによって言葉の斡旋で

秀逸と並ほどの違いが生じることが窺えて面白い。

大学時代にこの話を読んだ時は、さしてこの違いがピンとこなかったのだが、

今改めて見てみると、確かに大きく違うものだ。

「柴戸」では侘び住まいの庵の垣根に月が差しているという情景で、しみじみと

した情感は伝わってはくるが、ただそれだけの景色。

「此木戸」では固く閉ざされた城門が眼前に聳え、黒々とした城門とそれを

照らし出すかのように皓皓と差す月光との明暗が実に鮮やか。

しんしんとした静けさの中に、研ぎ澄ました冬月の輝きが際立って見えてくる。

垣根の錠と城門の錠を比べてみるだけでも、そのスケールの違いは顕著だ。

「霜の月」とすると、城やあたりに降りた霜が月光を反射して、より一層寒々

とした景になる。芭蕉と去来は「此木戸」であれば其角が下五を思い煩った

わけが納得いったのである。

そしてこの句、私も「冬の月」がいい。

「霜の月」では光が分散して焦点がぼやける感じがするし「霜」が少しうるさい。

高みから差し込むような「冬の月」だからこそ一句に静謐な風格を感じる。

 

 

 

2010年12月19日

 

冬菫こゑを出さずに泣くことも      由季

 

(ふゆすみれ こえをださずに なくことも)

 

 

 

 

2010年12月18日

 

うつくしき羽子板市や買はで過ぐ    高浜虚子

 

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東京では17日よりの3日間、浅草観音の境内で羽子板市が立つ。

そのずらりと並んだ絢爛豪華な光景はまさに

「羽子板市三日の栄華つくしけり 水原秋桜子」といった風情だ。

羽子板に描かれたとりどりの絵や装飾が実に美しく、

見ているだけでもおのずから華やいだ気分になる。

もともとは正月の遊びとしてつく羽子板を売る市で、羽子板には

「邪気を跳ね返る板」として女の子の成長を願う風習があるのだそうだ。

今では正月に羽子板をつく風習は廃れてしまったが、

年の瀬の最後に立つ市でもある羽子板市はたくさんの人でにぎわっている。

毎年、その年の世相を反映した羽子板が飾られて話題になっているが、

今年はさて、どんな羽子板が飾られていることだろう。

掲句は「買はで過ぐ」がいかにも羽子板市らしい。

見ているだけでなかなか買うところまでいかないのだ。

朝顔市、鬼灯市、熊手市、羽子板市、と市が立つたびに

訪れてはいるが、羽子板市だけは未だに買ったことがない。

 

 

 

2010年12月17日

 

水鳥や別れ話は女より     鈴木真砂女

 

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男女の別れには、それを少しも予期していない別れと、

暗黙のうちに互いに覚悟をしている別れとがある。

前者は例えば、相手にほかに好意を持つ人が出来てしまった場合。

後者は例えば、そのまま関係を続けていくことに何らかの障害が

立ちはだかっている場合だろう。

この句の別れがどうであったか。

その答えはこの句の下五が語っている。

女性である作者があえて「女より」という。

そこからは、いつまでも今のままの変らない関係ではいられないことを

心の隅に置きながらも、逢瀬を重ねずにはいられない男女の姿が見えてくる。

男も女も、この恋愛が行き場のないものであることは、わかっているのだ。

そしてやがてはどちらかが言い出すのではないかと覚悟している別れ話で

あることも。だからこの別れは後者の別れ、と私は思う。

そして先に覚悟を決めたのは女の方であった。

「羅や人悲します恋をして」「死なうかと囁かれしは蛍の夜」

「蛍火や女の道をふみはづし」「すみれ野に罪あるごとく来て二人」

真砂女の残した恋愛句の数々は、どきりとさせられるものばかりだ。

波乱に満ちた人生の中、人を愛する情念というものに、

ある意味、素直に生きた人であったのだろう。

愛がなくなったがゆえの別れに未練はない。

そうではなく、道ならぬ恋に未練を残しながらも、別れることを決心する。

そんな真砂女に「〈身を引く〉という愛し方もあるものなのよ」ということを

教えられているような気もする。

さて、女が切り出した別れ話のゆくえは、どうなったのだろう。

しばらくつづく男の沈黙。

しんしんとあたりに降り積もる研ぎ澄まされた冬の寒さ。

二人の間に横たわる、切なきまでに張り詰めた静寂を、

水鳥の羽ばたきがときおり壊していく。

別れ話のゆくえ、ひいては二人のゆくえは今、

すべて男の言葉に委ねられたのである。

 

(同人誌「気球」2006冬号「由季の恋愛日和」より転載)

 

 

 

 

2010年12月16日

 

しんしんと寒さが楽し歩みゆく     星野立子

 

(しんしんとさむさがたのしあゆみゆく)

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しんしんと寒さの募る日には、この句を口ずさむと元気が出る。

寒さの中にいると、体が縮こまってくるけれど、

この句は背筋を伸ばしながら、颯爽と歩いていく感じだ。

乾いた風がびゅうびゅうと吹きつけてくる寒さではなく、

少し湿り気があって、身に吸いつくような冬の寒さ。

「しんしん」というあたりに、そんな寒さを感じさせる。

それにしても、「寒さが楽し」と素直に言ってしまうところがいい。

そして寒さが楽しいと言えることは、とっても素敵だ。

 

寒さを厭わず前を向いてしっかり歩いてゆく。

深読みする必要はないが、この句には立子の人生に対する

向き合い方が出ているように思う。

 

 

 

2010年12月15日

 

クリスマスリースに灯り小鳥ほど      由季

 

(くりすますりーすにあかりことりほど)

 

 

 

 

 

2010年12月14日

 

子の髪のつややかメリークリスマス     林 誠司

 

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クリスマスが近づくと必ず思い出す、大好きな句。

家族で過ごすクリスマスの夜、吾が子のつややかな髪に

作者の視線が注がれている。その子どもとは、まだサンタクロース

の存在を信じているくらいの年頃の子。

無邪気に父のもとに寄り来る、そんな子供の姿が見えてくる。

子供の髪は無垢でみな艶やかだが、団欒の灯や聖樹の灯に照らされて

まるで天使がいるかのように、より一層輝いて見えたことだろう。

「子の髪のつややか」にはまた、吾が子の健やかな成長を喜ぶ、

作者の親としての思いが籠められている。

この句を思うと、季語の取り合わせがいかに大切かということに気付く。

「子の髪のつややか」という表現をこれほどまでに魅力的に感じたのは、

「クリスマス」という季語で詠まれているからだ。

しかも「メリークリスマス」としたのは実に新鮮で、

「メリークリスマス!!」と言っている声が聞こえてくるかのよう。

 

くちずさむたびに、幸せと優しさがこの句からは溢れてくる。

 

 

2010年12月13日

 

寒禽の思ひ切るときかがやけり     由季

 

(かんきんの おもいきるとき かがやけり)

 

 

 

 

 

2010年12月12日

 

何求めて冬帽行くや切通し     角川源義

 

(なにとめて ふゆぼうゆくや きりとおし)

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「切通し」とは、山や丘などを切り開いて、交通が出来るようにした道。

鎌倉の山を歩いていると、掘削のあとの岩肌がむき出しになっている

切通しに出合う。まわりの木々に日を遮られてどことなく暗くて、

一人で通るのはちょっと躊躇われるようなところもある。

その切通しをひとり行く人がいる。

何のためにこんなところを抜けていくのだろうか。

「冬帽」に象徴された人物の孤独を感じる句だ。

切通しを抜ける冷たい風をも感じる。

「何求めて冬帽行くや」と作者は言うけれど、作者もまた同じなのである。

作者自身の人知れぬ孤独がそう言わせたのであろう。

 

 

 

 

2010年12月11日

 

あはあはと日の通ひくる冬桜     由季

 

(あわあわと ひのかよいくる ふゆざくら)

 

 

 

2010年12月10日

 

神垣や奥拝まるる冬桜    野村喜舟

 

(かみがきや おくおがまるる ふゆざくら)

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神垣とは神社の周囲の垣のことで、神域を他と区別するためのもの。

仏像やキリスト像を拝むのとは異なり、神社のご神体は直接見て拝む

ことが出来ない。ご神体は目に触れぬところにあって、

そこに向かって人は拝む。

この句を読んで、わたしは伊勢神宮の内宮の光景が浮かんだ。

天照大神のいる神様の領域は高い塀が四方を巡っていて

見ることが出来ないが、皆、その見えない奥へ向かってしずかに目を閉じている。

その奥にいらっしゃるという神様の息吹を感じようとしているがごとくに。

冬桜は冬に咲く白色一重の小振りの桜。

最後に置かれた「冬桜」に、拝む人のこころのありようが見えてくるように思う。

 

 

 

 

 

2010年12月 9日

 

逢へば短日人しれず得ししづけさも    野澤節子

 

(あえばたんじつ ひとしれずえし しずけさも)

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「もう、結構な時間になりましたか」

「あら、ほんとう、外がすっかり暗く...。まだ時間は早いのに。」

「ほんとうだ、冬の日暮れは早いね。まあ、そろそろ、帰りましょうか」

 

冬の暮れの早さは、人との別れの時間を早くもさせる。

「逢へば短日」には、日の短さによる逢瀬の短さを物足りなく

思う切な心がある。本当はもっと一緒にいて話をしていたいのだ。

逢瀬の短さを惜しみつつ、その一方で感じている「しづけさ」。

この静けさは、逢えたことに感じる心のやすらぎ。

人知れずと言っているけれど、その人は他の誰でもなくその相手のことを

指しているのだろう。要するに一方的な恋心。尊敬する師との逢瀬というような

ことを想像させもする。もっと同じ時間を過したいという思いと、逢えただけで

心が満たされるという思い。二つの思いが葛藤しているようで切なくも胸に響く。

 

かにかくに逢へばやすらぐ花柚の香

 

この句も私の好きな節子の句。

「花柚」は夏。強い思いだけれど、それは少女のようなひたむきな思いで

あることをその香りが感じさせる。「逢へばやすらぐ」。この思いがとても

好きだ。

 

 

2010年12月 8日

 

 12月8日 ジョン・レノン凶弾に倒れる

空は青尽くしてゐたりレノンの忌      由季

 

 

 

 

 

2010年12月 7日

 

冬菊のまとふはおのがひかりのみ    水原秋桜子

 

(ふゆぎくの まとうはおのが ひかりのみ)

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菊の花盛りは秋だが、冬になっても咲いているものを冬菊という。

秋のまばゆい光の中で輝きあうように咲いていた菊の姿とは違い、

枯れを深める景色の中で一つ、一つ静かに咲いている菊。

それも、小振りの菊の姿が見えてくる。

冬菊だけでなく、冬薔薇や冬菫、冬桜など「冬」を冠せられた花々はみな、

寒空の下で自らの力を頼りに咲いているように思える。

「ひかり」とはその自らの力をいっているのだろう。

輝くいのちの光。そこには静かな力がある。

けれども、「まとふはおのがひかりのみ」は他のどの花でもなく、

冬菊であるのがいい。

冬菊にある清浄な空気が、ひかりの質を儚さだけでない崇高なもの

へと導いているように思えるからだ。

冬菊の纏うひかりには、侵しがたい美しさが宿っているように思う。

 

 

 

2010年12月 6日

 

短日や凭れ傾く本の背   由季

 

(たんじつや もたれかたむく ほんのせな)

 

 

 

 

 

2010年12月 4日

 

完璧なまでの省略大冬木   日下野仁美

 

(かんぺきなまでのしょうりゃく おおふゆき)

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好きな季節があるように、季語にも好みの季語というものがある。

私にとって「冬木」は気に入りの季語のひとつ。

「ふゆき」と口に出すだけで、言葉に宿っている詩が立ち現れて

くるようなところが好きだ。

 

葉を落として枝ばかりになった大樹。

そのシンプルな立ち姿を「省略」と捉えた。

省略というと不完全で中途半端な印象があるが、

冬木の場合はそれが完全形。

しかも「完璧なまでの」と駄目押しのように言ったところが

この句の面白さだ。枝を存分に広げて堂々と立つ

この上なく完璧な冬木の大樹が見えてくる。

 

 

2010年12月 3日

 

つなぎやれば馬も冬木のしづけさに     大野林火

 

(つなぎやれば うまもふゆきの しずけさに)

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冬木の静けさ。しんと張り詰めたあたりの空気。冬木に繋がれた馬。

繋いだ馬の姿を冬木の佇まいの静かさと同質のものとして

捉えているところに惹かれる。

そして冬木と馬を結びつける「つなぎやれば」の一語にも。

「繋がれて」や「繋がれし」では馬も冬木もどこか遠い。

違いの魅力をうまく言えないのがもどかしいが、

「つなぎやれば」には、言葉の熱(温かさ)のようなものを感じるのだ。

それは作者の馬を見る視線の温かさに通じていて、

言外にそれを感じているからかもしれない。

 

 

 

2010年12月 2日

 

一対の冬木しづかに触れ合ひぬ    由季

 

(いっついのふゆき しずかにふれあいぬ)

 

 

 

2010年12月 1日

 

大空に伸び傾ける冬木かな     高浜虚子

 

(おおぞらに のびかたむける ふゆきかな)

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常緑樹でも落葉樹でも、冬の樹木を総称して冬木と言うが、

どちらかというと、葉を落として幹や枝々があらわになった

落葉樹の方が冬木というにふさわしい。

大空に広がるように枝を張る冬木。

冬の青空を背景に立つ大樹が見えてくる。

客観写生を説いた虚子。この句は一見、冬木のありようを

素直に言葉で写し取った客観写生のお手本のようであるが、

「傾ける」の一語には、ただの客観写生に終わらない奥行がある。

風景の奥に、人間の姿が見えてくる。もしかしたら虚子自身がそこに

投影されているのかもしれない。

客観の裏に隠された虚子の主観。

その奥義を虚子の言葉の斡旋の巧みさに見ることができるように思う。

 

 

2010年11月30日

 

聖樹から聖樹へ街のつづきをり     由季

 

(せいじゅからせいじゅへまちのつづきおり)

 

 

 

2010年11月29日

 

引く波は見えず十一月の海     由季

 

(ひくなみはみえずじゅういちがつのうみ)

 

 

 

2010年11月28日

 

朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ     星野立子

 

(ほおのきのおちおり ほおのきはいずこ)

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柿落葉にしても銀杏落葉にしても、たいていその木の元にたまっている

けれど、朴落葉は葉が大きいせいか、意外に遠くまで飛ばされて

きていることがある。

先日訪れた平林寺でも、まったくこの句とまったく同じ思いをした。

しかも、朴落葉は他の落葉と比べてびっくりするくらい大きい。

だから特別に木を探したくなるのだ。

でも周りを見上げてみても、それらしき葉をつけた木々は見当たらない。

まさに「朴の木はいづこ」。

立子の句は詠めそうでいて、意外に詠めない。

そのあたり、まさしく虚子のDNAだな、と思う。

 

 

 

2010年11月27日

 

あたたかき十一月もすみにけり     中村草田男

 

(あたたかき じゅういちがつもすみにけり)

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11月も最後の週末。

歳時記の中だとどこか漠然としていたものが、

実際にその物や季節を体験するとすとんと腑に落ちる句がある。

私にとってこの句はその中のひとつ。

小春日のつづく11月は冬といっても暖かな日和が多い。

しかも年の終わりに近づいているにも関わらず時間の流れが穏やかだ。

12月に入ると一気に年末の慌しさとなる。

11月という穏やかに過ぎた日々への感慨。

「十一月の」ではなく「十一月も」には、11箇月という歳月の積み重ね

の感慨も同時に含まれている。

この時季に口ずさむと、何とも味わい深い一句。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年11月26日

 

白鳥に似てセーターの厚き胸     由季

 

(はくちょうににて せーたーのあつきむね)

 

 

 

2010年11月25日

 

彼の人には会へぬ桜の返り咲く    由季

 

(かのひとにはあえぬさくらの かえりざく)

 

 

 

2010年11月24日

 

いつの間に昼の月出て冬の空     内藤鳴雪

 

(いつのまに ひるのつきでて ふゆのそら)

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雲一つない冬の空に、うっすらとかかる昼の月。

「いつの間に」という表現が素直すぎて巧い句では

ないけれど、何だかとても共感できる句だ。

「いつの間に」には「もう昼の月が出ている!」というちょっとした

驚きがある。冬空の青を透かすようにかかる昼の月が儚くも綺麗だ。

内藤鳴雪は明治・大正時代の俳人。

昔の人という感じがしていたけれど、自分と同じところに目を留めて

それを素直に詠んでいる句を見て嬉しくなった。

鳴雪は飄逸恬淡な人柄で、とても愛された人らしい。

この句の衒いのなさにも、そんな人柄が感じられるようにも思う。

漢学を大原観山に学び、俳句はその娘の子、正岡子規に学んだ。

〈詩は祖父に俳句は孫に春の風〉。こんな句も残している。

 

 

2010年11月23日

 

銀杏散る耀く言葉あるごとく     由季

 

(いちょうちる かがやくことば あるごとく)

 

 

 

 

2010年11月22日

 

てつぺんにまたすくひ足す落葉焚    藺草慶子

 

(てっぺんに またすくいたす おちばたき)

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落葉焚は童謡の「たき火」の歌を思い出すせいか、

どこかノスタルジーな気分にさせてくれる季語だ。

私が小さい頃は、冬になると家の庭先や畑で

落葉焚をしている煙があがっているのを見ることができた。

学校でも落葉焚をしたりしていたけれど、今でもしているのだろうか。

火災の原因になるので、今では昔ほど大らかに焚火が出来なくなって

いるように思う。

小学校の裏庭で、たくさんの落葉を掻き集めて、その中にさつま芋を

新聞紙だったか、銀紙だったかにくるんで入れた落葉焚の楽しかったこと。

ぶすぶすと煙を上げる落葉の中で燻されていくお芋を今か今かと待ちわびた。

ときどき棒で突くと、ところどころふわっと炎を上げる。

火の強弱の加減は忘れてしまったが、落葉を足して調整していたその光景は

何となく今でも覚えている。

 

掲句、落葉の嵩が減ってきて、また残りの落葉を上から足してゆく。

「てつぺん」の一語が落葉焚を活写していて、ありありと光景が目に

浮んでくるのである。

 

 

2010年11月21日

 

水鳥のしづかに己が身を流す    柴田白葉女

 

(みずどりの しずかにおのが みをながす)

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この時季、湖や公園の池には鴨やかいつぶり、ばん等の

水鳥たちがたくさん集まっている。

餌を取るために水面下に潜っては、少し離れたところからぴょこん

と現れるその姿は愛らしくて、見ていて飽きることがない。

水中では水掻きを忙しなく動かしている水鳥だが、

水上の姿はゆったりとしずかで、ただ浮いているようにも見える。

水の流れに逆らわず流れてゆくかに見える水鳥。

「しづかに己が身を流す」に水鳥に投影された作者自身の姿が重なる。

 

 

2010年11月20日

 

人波に揉まれ熊手のおかめ笑む    由季

 

 

2010年11月19日

 

俳諧の慾の飽くなき熊手買ふ    富安風生

 

(はいかいの よくのあくなき くまでかう)

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面白い句だ。

「俳諧の慾の飽くなき」と大きく出ながらも、

「熊手買ふ」がちょっと他力本願みたいに思えるからだ。

俳諧の慾は尽きることはない。

これでいいのだということは無いと風生はいう。

「俳諧の慾」とは自身の作品の深化も含めた広義の慾であろう。

「俳句」という呼び名が一般的になっていた風生の時代に

敢えて「俳諧」といっているところに、そんな風生の思いを感じる。

それでも、信心は大事。

酉の市で熊手を買って、縁起物の熊手で俳諧の福まで呼び込もう

と勢いこんでいる、そんな心の内まで見えてくるようだ。

 

 

2010年11月18日

 

返り花きらりと人を引きとどめ   皆吉爽雨

 

(かえりばな きらりとひとを ひきとどめ)

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返り花とは冬のあたたかな日に、草木が時ならぬ花を咲かせること。

帰り花とも書き、時ならぬということで狂い花とも言う。

ほつほつと一輪、二輪と咲いている姿は可憐で、

違う季節にふと咲いてしまったその儚さは、旬の姿とは違う感動がある。

 

「きらり」は返り花の放った光。

咲いていることを気付いてほしいと放ったいのちの光が

人をひきとどめている。

 

 

2010年11月17日

 

冬晴や空より降りてきたる猫   由季

 

(ふゆばれや そらよりおりてきたるねこ)

 

 

 

2010年11月16日

 

天地のあいだにほろと時雨かな     高濱虚子

 

(あめつちの あいだにほろと しぐれかな)

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虚子が捉えた時雨。

時雨の降りざまを詠みながら、その裏に人生を感じさせる

ところが虚子のすごさだ。

客観写生を説いた虚子だが、写生の奥にはいつも

深い意味が隠されている。

表面だけ味わっていては、虚子の本当のすごさはわからない。

俳句ですべてを捉えようとした稀有の一人だと思う。

俳句の歴史は「芭蕉の百年後に虚子という人がいました」

となる、と先日の句会で師が話していたが、本当にそうだろう。

芭蕉も虚子も他の俳人には無い、底知れぬ深さがある。

 

 

2010年11月15日

 

うつくしきあぎととあへり能登時雨   飴山 實

 

(うつくしきあぎととあえりのとしぐれ)

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初冬の頃、急にぱらぱらと降っては止み、また降り出す雨が「しぐれ」。

もともと京都で生れた季語で、時雨というと京都の冬の風情なのだ。

残念ながら、私はまだ本場のしぐれに出会ったことがない。

出会えた人の話がとても魅力的な雨の風情だったので、

それ以来、京の時雨には、いつかはその風情を味わってみたい

という特別な思いがある。

 

掲句は能登の時雨。

以前仕事で輪島を訪れた時、出迎えて案内をしてくださった人が

「この辺は雨が多いんですよ。

冬は弁当忘れても傘忘れるな、というくらいで」

と教えてくれた。その日は降ったり止んだりの雨。

能登の厳しい寒さの中で、「ああ、これが能登時雨なんだな」

と思ったことを思い出す。

雨に濡れた空気が、しんしんと肺の奥深くまで入っていく感覚は

今でも忘れられない。

時雨の中ですれ違った若い女の人の美しいあぎと。

「あぎと」とは「あご」のことだ。

傘をさして少し俯きがちに急ぎゆく美しい女の人の姿が浮かぶ。

「あぎと」に焦点を当てて詠んでいるが、もちろん顔も美しいことを

想像させてなんともいえぬ色香である。しかも品のある艶めかしさ。

句も景もうつくしい。

この句にはどこか一幅の日本画を思わせるようなうつくしさがある。

 

 

 

 

2010年11月14日

 

生きるの大好き冬のはじめが春に似て    池田澄子

 

(いきるのだいすき ふゆのはじめが はるににて)

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小春日和も今日あたりまでで、

来週からは天気も崩れて冷え込みが厳しくなるらしい。

 

この句も小春日和を詠んだ句だ。

冬のはじめの暖かさを、そのまま素直に言っている。

「生きるの大好き」も「冬のはじめが春に似て」も表現は子供みたいに

素直で無邪気な感じがするけれど、なんだかこの句は深いなあと思う。

子供でもなく、若者でもなく、ある程度人生を経験した人でないと

たぶんこの季節は選べない。

春の穏やかさでなく、夏の力強さでなく、秋の爽やかさでもなく、

ましてや冬の厳しさでもなく、冬に入りたての微笑むような陽気に

出会えた思いもかけぬうれしさ。

もちろん、小春の浮き立った気分が「生きるの大好き」と素直に言わせた

句と鑑賞してもいいのだけれど、冬のはじめが春に似ていると言った作者の

言葉の中に、どこか人生の面白さみたいなものを感じさせてくれるのである。

そしてその面白さが「生きるの大好き」という思いを輝かせているように思う。

 

 

 

2010年11月13日

 

むさしのの空真青なる落葉かな    水原秋桜子

 

(むさしのの そらまさおなる おちばかな)

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「画や歌でばかり想像している武蔵野を

その俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい」

 

これは国木田独歩の小説『武蔵野』の中の一文。

武蔵野というと、私は井の頭公園や三鷹のあたりを

思い浮かべる。それは武蔵野イコール雑木林という

イメージがあるからだ。

独歩の言う「武蔵野をその俤ばかりでも」というのは

実は雑木林になる以前の、萱や芒が一面に広がる

荒涼たる野原だったころの武蔵野であるという。

武蔵野の俤は、時代によって違うようだ。

秋桜子の「むさしの」はもう雑木林になった武蔵野の景。

落葉して木々の間に見えた武蔵野の青空を詠んでいるのだろう。

開発とともに消えてゆく武蔵野の景が少しでも多くこれからも残って

いてほしいものだ。

 

 

 

2010年11月12日

 

おほぞらの色に吹かれて冬薔薇     由季

 

(おおぞらの いろにふかれて ふゆそうび)

 

 

 

 

 

冬薔薇石の天使に石の羽    中村草田男

 

(ふゆそうび いしのてんしに いしのはね)

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薔薇は一季咲きのものと、四季咲きのものがあり、

咲いている姿は一年を通して見ることができる。

俳句で詠むときには「薔薇」といえば夏。

夏は薔薇の盛りで大輪の豪華な花を咲かせるが、

冬でも大きな薔薇は咲くので、秋や冬だからといって

花が小ぶりというわけではない。

ただ、薔薇が纏っている空気が明らかに違う。

冬薔薇は凛とした空気の中で咲く姿。そしてその上に

見えるのはコバルトを流したような冬の青空。

 

西洋風の庭園だろう。薔薇園に置かれた天使の像。

「石の天使に石の羽」の表現には当たり前なことを

再発見するような新鮮さがある。

確かに石の天使は羽も石。もちろん羽ばたくことはい。

冬薔薇と石の天使。

その出会いは何とも侵しがたい。

薔薇のいのちがふっと石の天使に吹き込まれはしないだろうか。

ふと、そんなことを想像してみたくなる。

 

 

 

 

 

 

2010年11月11日

 

小春日やりんりんとなる耳環欲し   黒田杏子

 

(こはるびや りんりんとなる みみわほし)

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立冬を過ぎて、穏やかな晴れの日が続いている。

「小春日」は冬の初めのころの春を思わせる暖かな陽気のことを言う。

ここ数日はまさに小春日だ。

俳句を始めた頃、「小春」という響きが冬の季語であることが新鮮だった。

そして冬の暖かさに「小春」と名づける昔の人の季に対する遊び心を

心憎いと思ったものだ。

「小春」は陰暦十月の異称。ほかに「小六月」とも言う。

陰暦の季節の表わし方は、表現が豊かだなとつくづく思う。

今の暦は分かりやすくて便利だけれど、やはりどこか味気ない。

 

掲句は「小春日」がとてもいい。もちろん「春」ではだめ。

ただ暖かい春では「りんりんと鳴る」が響いてこないからだ。

「りんりんと鳴る耳環欲し」という思いは、やはり小春の中にある

冬という季節と響きあっているのである。

 

 

2010年11月10日

 

さざなみの鱗のやうに冬はじめ    由季

 

(さざなみの うろこのように ふゆはじめ)

 

 

 

2010年11月 9日

 

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す   正木ゆう子

 

(かのたかに かぜとなづけて かいころす)

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 鷹は冬の鳥。この句も昨日の句と同じ、自由を奪われた鳥の姿を詠んでいる。

 

「かの鷹に」というこの出だしが好きだ。

「かの」は漢字では「彼の」と書いて「あの」という言い方と同義だが、

「あの」には具体的な距離をそこに感じるのと比べて「かの」という言い方

には、対象の存在がそこに在って無いように感じるからだ。

「かの鷹」は作者の心に浮ぶ鷹の姿であって、また不特定の鷹をも指している。

 

大空を我がもの顔に悠々と飛びまわってこそ鷹は鷹として生きられる。

自由を失った鷹はもはや鷹ではないのだ。

この句はその生の憐れさを、「風」という名でばさりと切って言い放っている。

 

 

 

2010年11月 8日

 

檻の鷲さびしくなれば羽搏つかも   石田波郷

 

(おりのわし さびしくなれば はうつかも)

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檻の中で飼われている鷲。

波郷が「鶴」を創刊するときに詠んだ「吹きおこる秋風鶴を歩ましむ」も

動物園で作った句だというから、これも動物園の鷲かもしれない。

檻の中の止まり木にじっと動かずにいる鷲の姿を見たことがあるが、

それは何者をも寄せ付けぬような孤高の美しさであった。

とは言え、猛禽類である鷲が、せまい檻の中でじっとしている姿は

やはり哀れを誘う。

檻の鷲をじっと見つめる作者の目は鷲の孤独と向きあっているのだろう。

「さびしくなれば」と鷲に寄り添う心が切ない。

 

 

2010年11月 7日

 

冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ    川崎展宏

 

(ふゆという くちぶえをふくように ふゆ)

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今日は立冬。暦の上では今日から冬になる。

それぞれの季節の立つ頃は前の季節が残っていて、季が変っても大抵

名ばかりという感じがするものだ。それでよく「暦の上では」と言ったりする

けれど、その暦の上がとっても大事。

体感だけで季節を感じていたら、古今集や源氏物語、枕草子など日本文学上の

季節の移ろいにおける豊かな情緒は生れなかったはず。

今日から冬、と思う心が、装いや調度に季節ならではの趣向を見せたり、

目に映るもの、肌で感じるもの、耳に聞こえるものの微妙な変化を気付かせて

くれるのである。

 

掲句、「冬」と言ってもそれは冬の入り口という感じ。句から厳しい寒さは感じない。

青々とひろがる空の下でひとり、「冬」と言ってみる。

「口笛を吹くやうにフユ」

言われてみれば「冬」だけが口笛を吹くように言える。まるで季節の移ろいを確かめる

一人遊びのようで、なんだかとても楽しそうだ。

アの母音が一音もないので、口をすぼめたまま言うことができて一句全体も冬使用と

いう感じ。「フユ」の表記もやがて吹き来る北風のヒューという音を思わせる。

表記や音に注目して見てもとても楽しい一句である。

 

 

2010年11月 6日

 

夕づつにまつ毛澄みゆく冬よ来よ   千代田葛彦

 

(ゆうずつに まつげすみゆく ふゆよこよ)

..............................................................................................

「夕づつ」は漢字で書くと「夕星」。ゆうずつと言って夕方になると

西の空にいち早く点る大きな星。宵の明星とも言い、金星のことを指す。

金星の最大光度は一等星の数十倍もあるのだそうだ。

地球のすぐ近くにある惑星とはいえ、、それだけの明るさを持つがゆえに

あれほど大きく輝いて見えるのだろう。

季節は秋から冬へ移り変わろうとしている。

夕星を見上げる眼差しはすでに冬の気配をとらえて覚醒してゆくかのようだ。

「冬よ来よ」――。冬を待つ心とは、やはり強き心であろう。

夕星、まつ毛、冬。句に描かれた空気がどことなくメルヘンの世界をも感じさ

せて、ふと藤代清治の影絵を思い起した。

 

 

2010年11月 5日

 

ころがつて帽子の箱や冬支度    石田勝彦

 

(ころがつて ぼうしのはこや ふゆじたく)

..........................................................................................

もうすぐ冬がやってくる。

本格的に寒くなる前に装いも冬の準備をする頃。

マフラーや手袋、厚手のコートに冬帽子。

帽子はたいてい箱に入れて高いところに積んでしまって置くことが多い。

それを降ろして取り出している感じが「ころがつて帽子の箱や」に

うまく出ていて、思わず納得してしまう。

季節のものを入れ替えるときの、あたりが少し物で散らかる感じも

同時に見えてくるようだ。

 

 

 

 

2010年11月 4日

 

秋海棠といふ名も母に教はりし     石田郷子

 

(しゅうかいどうというなもははにおそわりし)

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薄紅色の小花を少し垂れ下げて俯くように咲く秋海棠。

緑道や公園の少し日陰になるようなところに咲いていて、

名前は知らなくても見たことがある、と思うような花だ。

 

秋海棠が咲いているのを見てふと足を止める。

花から思い起こされる母との思い出。母が教えてくれた、たくさんのこと。

そういえば、この花の名前も母に教えてもらったんだっけ。

あれは確か一緒に買物に出た道すがらだったかな。

「この花、秋海棠っていうのよ」 「ふーん」

あの時は何気なく聞いていたけれど、ちゃんと今でも覚えている。

 

花の名前は母との記憶につながっている。

それは、母が一つ一つ折に触れて教えてくれたから。

それはまるで見えない宝物を残してくれるかのように。

 

母ここに佇ちしと思ふ龍の玉

 

この句も同じ作者の句。掲句を思い出すと対のように思い出す句だ。

そしていつも心の奥の方が、じーんと熱くなってくる。

 

 

 

2010年11月 3日

 

食卓にレモンと鰯文化の日    山田みづえ

 

(しょくたくに れもんといわし ぶんかのひ)

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今日は文化の日。

その名に相応しいひらけるような青天で、この日に尽くしてくれているかのようです。

叙勲のお祝いが皇居でひらかれ、街では学校の文化祭が行なわれたり、

華やかさを感じる祝日でもあります。

掲句は祝日で休みとなった日の食卓。

レモンと鰯。鰯はどんな風に料理されたものでしょう。ただ焼いただけかもしれません

が、何となくそれよりちょっと手をかけてムニエルぐらいにしている、そんな食卓を

想像します。鰯はあまり凝った料理でもいけません。あくまでも庶民的な鰯の域が

いいのです。この句のポイントは「レモン」ですね。

鰯にレモンを添えたところに、常とは違うちょっとした気持の彩りを感じさせます。

お皿の上のレモンと鰯。レモンの黄色が秋の爽やかなひかりとも引き合います。

なんだか文化の日の食卓としてこれ以上のものはないような気がしてきました。

 

秋も最後の祝日。いただいた青空に存分に秋を惜しみたいと思います。

 

 

 

2010年11月 2日

 

日のくれと子供が言ひて秋の暮    高濱虚子

 

(ひのくれと こともがいいて あきのくれ)

.............................................................................................

「日のくれ」と子供のいった声に、日の暮に気付き、そこに秋の暮を感じている。

「秋の暮」は今では文字通り秋の夕暮れの意味でつかわれることが多いが、

もともとは秋の終わり、晩秋をさすものでもあった。

晩秋をさす「暮の秋」という季語があるので、それと区別して使われてもいるが、

「秋の暮」に晩秋の雰囲気をまとっている句も多く、そのあたりははっきりと区別する

ことはむずかしい。

この句の秋の暮は、秋の暮方と秋の終わり(晩秋)のどちらの情趣も伴っている。

それゆえ、何ともいえぬしみじみとした味わいがあるのである。

 

 

2010年11月 1日

 

夢殿の夢の天まで澄みにけり     林  誠司

 

(ゆめどのの ゆめのてんまで すみにけり)

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夢殿は法隆寺東院の本堂。行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲び天平11年(739年)に

斑鳩宮跡に建てた八角円堂で中の厨子には聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音

がおさめられている。

飛鳥時代、そのあたりは聖徳太子の寝殿があって、その傍に建てられた堂は聖徳太子

が経典を写したり、幾日も籠って瞑想をしたりと、禅定して夢に入られる聖なる場所で

あったという。

そこは聖徳太子が世をよくするためにどうしたらいいかを考え、よりよい世界を作る夢を

見る場所であったのだ。当時の夢殿は焼失してしまったが、聖徳太子の等身を本尊と

する夢殿には聖徳太子の夢がいまでも息づいているように思う。

夢殿とは聖徳太子の夢そのもの。その夢の天まで澄んでいるというところに、

悠久の時を超えてその夢に思いを馳せる作者のロマンがある。

 

 

2010年10月31日

 

旅客機閉す秋風のアラブ服が最後    飯島晴子

 

(りょかくきとざす あきかぜの あらぶふくがさいご)

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この句から見えてくる映像の余韻と音の響きをただ味わう。意味を求めては

いけない句だなとこの句をくちずさむたびに思う。

私が思い描くのは、砂漠の砂がときおり風にはこばれてくるような場所。

旅客機にはタラップが掛かっていて、今まさに最後の一人が旅客機に乗り込もうと

している。風に吹かれて白くたなびくアラブ服。中に入る手前で一瞬振り返ったような、

そんな時間の溜めをも想像する。そしてたなびくアラブ服の余韻を秋風に残しながら

吸い込まれるように中へと消えてゆく。ゆっくりと閉じていく重い扉。

女性の着る黒いアラブ服を想像するとまた違う余韻があってそれも魅力的だが、

白を想像すると秋風のもつ白という色とも通い合う。

何回読んでも秋風でアラブ服で最後でなければ出てこない特別な余韻がある。

この句が意味ではなく人をひきつけるもう一つの理由は音の響き。

飯島晴子という人の細部にまでこだわりを見せるその職人のような目をそこに見る。

旅客機、閉す、秋風、アラブ服、最後。

「あ」の音が一句を貫くように響く。意味ではなく音を意識することが韻文にとっていかに

大事かということを改めて気がつかせてくれる。

 

 

2010年10月30日

 

ひかり飛ぶものあまたゐて末枯るる   水原秋桜子

 

(ひかりとぶものあまたいて うらがるる)

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「末枯れ」は晩秋になって草木が葉先や枝先から枯れ始めることをいう。

「末(うら)」とは端とか末という意味で、草木の先端のことを指しているのだが、

何かこの「うら」という響き自体に、すでに秋の終りの物淋しさを感じてしまうのは、

「心淋しい(うらさびしい)」という音の響きをそこに重ねてしまうからだろうか。

鳥の渡りや草木の枯れに見る季節の移り変わりに、人々は古来より心を動かされてきた。

ひかり飛ぶものとは秋になって山から降りてきた小鳥たちや渡りの鳥たちの姿だろう。

「ひかり」と「枯れ」。対比するかのように置かれている言葉に実はどちらのいのちの

かがやきをも詠みとめられていることに気づく。

草木にとって枯れることは冬を迎えるための準備。そこにも見えない力が光っている。

 

 

2010年10月29日

 

思ひあふれて空澄めり水澄めり    黛 まどか

 

(おもいあふれて そらすめり みずすめり)

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空が澄んで、水が澄む。秋の天地はとても大きくて、すみずみまで澄み渡って

ゆくような心地がする。そんな秋の気に触れて今思いがあふれる。

泉のように湧き上げてくる思い。どんな思いがあふれたのだろう。

その思いがどこか喜びのように思えるのは、「空澄めり」「水澄めり」という秋という

季節への讃歌を句の底に感じるからかもしれない。

「あふれ」、「澄めり」という動から静への言葉の連なりにも清潔なものがある。

 

 

2010年10月28日

 

くちびるを出て朝寒のこゑとなる    能村登四郎

 

(くちびるをでて あさざむの こえとなる)

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「朝寒」は朝方に感じる寒さのこと。起き抜けの部屋の空気や窓を開けたときの

ひやりとした風に、冬が近づいていることを感じる。

この句は、自分の声に冬の気配を感じた。真冬のように吐く息が白くなるほどでは

ないけれど、確実に冬へ向おうとしている秋と冬のあわいにある寒さ。

いつものように発した一語にその瞬間の移ろいが捉えられているのだが、

「くちびるを出て」の言い出しがなんとも巧い。ありありと実感を伝えてくれる。

 

 

2010年10月27日

 

帰るのはそこ晩秋の大きな木    坪内稔典

 

(かえるのはそこ ばんしゅうの おおきなき)

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関西では木枯し一号が吹き、北海道では初雪と一気に冬の装い。

今年の秋は駆け抜けるように過ぎていきそうです。

「~年以来の」という真夏日や早い冠雪の気象ニュースが自然の警告のようにも

聞こえます。人がいなくなって、ふたたび地球が緑に覆われて新たに再生してゆく

そんな時が来るのもそう遠い未来ではないのかもしれません。

人は地球を消耗させすぎましたから。

 

今は晩秋。行く秋を惜しんで、冬の訪れを身に感じる季節。

帰るのはそこ、というのはずーっと同じ場所で帰りを待っていてくれたかのような大きな木。

「晩秋」がとても心に響いてくるのは、人生の季節をその言葉に重ねるからだろう。

晩秋の大きな木。そこには羽をたたむ大きなやすらぎだけがある。

だからこそ、そこに帰ってゆこうとするのだ。

晩秋の大きな木。このゆるぎない存在を、誰もが持っているのだろうか。

 

 

2010年10月26日

 

露の玉強き光となつて消ゆ   名取里美

 

(つゆのたま つよきひかりと なってきゆ)

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大気が冷えると、草の葉の上に露が降りる。

びっしりと葉についた露の玉がくっついて大きな玉になったりしながら転がり落ちてゆく。

露の玉が消えるときの光。

強き光となって消えてゆくという作者の捉えた一瞬の光は

露の玉を詠みながら、すべての尊いものの命に繫がっているようにも思う。

消えゆくものが放つ一瞬の光は、とても美しい。

 

 

2010年10月25日

 

梨食うてすつぱき芯にいたりけり   辻 桃子

 

(なしくうて すっぱきしんに いたりけり)

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梨をまるごと齧るということはあまりないけれど、「すっぱき芯」の味には覚えがある。

この句は皮をくるりと剥いてそのまま齧って食べたのだ。

そして最後にすっぱい芯にいきあたった。

梨という果実を余すことなくこの句は言い得ていて、妙に納得してしまう。

梨というとその甘さや瑞々しさに重きを置かれた詠み方がされるが、そういう一切の

概念を排した対象の捉え方が実に新鮮。

「すつぱき芯」は文字通りの芯でもいいが、心理的な酸っぱさと捉えてみても

それはそれで面白い。

 

 

2010年10月24日

 

花薄風のもつれは風が解く   福田蓼汀

 

(はなすすき かぜのもつれは かぜがとく)

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花薄は穂が出て花の開いた薄。

穂のところが少しふわふわとして、日のひかりを明るく透す。

風に吹かれてもつれた薄を、つぎの風がやさしくほぐす。

「風」のリフレインが心地よく、表現の巧さには脱帽するが、

人の手の及ばぬ自然の摂理をも感じさせてその懐は深い。

― 風のもつれは風が解く ―

読むたびに、薄を渡るさわさわとした風の音が聞こえる。

 

 

2010年10月23日

 

渡り鳥はるかなるとき光りけり    川口重美

 

(わたりどり はるかなるとき ひかりけり)

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越冬のために北方から渡ってくる鳥たち。

一羽ずつではなく、大抵は群れで移動してくるので、秋の空を眺めていると、

遠くでも渡りの鳥たちの姿を見つけることができる。

「はるかなるとき光りけり」

渡り鳥の姿が、尊い光りのように描かれていてとても印象的な句だ。

声に出して読んでみて欲しい。韻律が実に美しく響いてくることがわかる。

作者の言う「はるか」は単純な距離の遠さだけではない。

手にいれることの出来ないものへのこころの距離でもある。

 

目つむれば秋の光は地より湧き

泳ぐ身をさびしくなればうらがへす

妙に深いソファー、時計が止まつてゐる

 

つねにどこかに寂しさを湛えているような重美の句に惹かれる。

渡り鳥の句もそう。

25歳の若さで命を絶った作者。命をつなぎとめるかのように詠まれた一句一句が

読むものに輝きながら立ち上がってくる。

 

 

2010年10月22日

 

栗飯のまつたき栗にめぐりあふ   日野草城

 

(くりめしの まったきくりに めぐりあう)

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栗の美味しい季節になった。

栗を使ったスイーツもたくさん出回っていて魅力的だけれど、

栗そのものの美味しさを味わえる栗飯がやっぱり一番贅沢だ。

ほくほくした栗の食感とやさしい甘味。家庭の秋の味。

季節の贈り物をいただく、という心の贅沢でもある。

 

「まつたき栗」とは完全な姿の栗。つまり、形が崩れていない栗のこと。

日常のささやかな贅沢に発見した、これまたささやかな贅沢。

ごろんと入っていた大きな栗に子供のように喜ぶ顔が見えるようだ。

 

 

2010年10月21日

 

雨粒がさそふ雨粒石榴の実    由季

 

(あまつぶが さそうあまつぶ ざくろのみ)

 

 

 

 

寂しいと言いわたくしを蔦にせよ   神野紗希

 

(さびしいといい わたくしを つたにせよ

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この句を読むと、わたしはいつも宮崎駿のアニメに出てくるような印象的な目をした女の子の

顔を思い出す。例えば「天空の城ラピュタ」のシータや「もののけ姫」のサンの顔。

話の内容は全然違うのだけれど、どこか不器用で、うまく思いを伝えることが出来なくて、

でも大切な人を守りたい、というようなもどかしさがそう思わせるのかもしれない。

たぶん、大人になりきってしまったらこうは言えない。

「蔦にせよ」と作者は呼びかけているけれど、それは心の中の声。

「寂しい」と言ってくれれば、私はあなたを守ってあげることが出来るのに。

それでも「蔦」の一語は切なく響く。

切なく思うのは、たぶん大人になりきってしまったから。

 

 

 

2010年10月20日

 

後の月吹かれてすこし歪みゐる   由季

 

(のちのつき ふかれてすこし ゆがみいる)

 

 

 

麻薬うてば十三夜月遁走す   石田波郷

 

(まやくうてば じゅうさんやづき とんそうす)

 

今日は十三夜。

旧暦の九月十三日にあたり、旧暦八月十五日の十五夜(仲秋の名月)の

後の月を愛でることから「後の月」ともいいます。

十五夜は中国で行なわれていた中秋節の月見の風習が日本に伝来したもので、

中国では今も月餅を食べながら月見の宴を盛大に行なっていますが、

十三夜を眺める風習は日本独自のものです。

十五夜、十三夜はそれぞれ供えるものにちなんで芋名月、栗名月(豆名月)とも

いいます。月を愛で穀物を供えて収穫に感謝するお祝いでもあったのです。

 

江戸の遊里では十五夜の月見をしたら十三夜も同じ場所で月見をしないと

「片見月」といって縁起が悪く嫌われたそうです。ですから、十五夜を遊里で

すごした人は必ずまた十三夜にも足を運ばなくてはいけない。

なかなか上手いことを考えるなと思いますが、とっても風流で粋(いき)ですね。

遊里でなくても、どちらも愛でるという対を重んじる心がそこに感じられます。

 

十五夜は愛媛の松山で無月の空を仰ぎました。

十三夜は東京。雲が切れてくれるといいのですが。

 

病床で詠まれた波郷の句。

麻薬は痛みを抑えるためのモルヒネ。

朦朧とする意識の中でとらえた十三夜の月が壮絶です。

 

 

2010年10月19日

 

秋天や馬頭観音玻璃囲ひ   由季

 

(しゅうてんや ばとうかんのん はりがこい)

 

 

 

秋晴のゆるむことなき一日かな   深見けん二

 

(あきばれの ゆるむことなき ひとひかな)

 

雲一つない秋晴の空。青く澄んで高くどこまでも広がる空。

秋の空は変わりやすいので、晴れていてもこの句のような

澄み渡った空に出会えることは少ない。

それにしても「ゆるむことなき」とは上手い表現だ。

秋晴そのものを詠みながら、一句全体に清澄な緊張感を湛えている。

「一日かな」はそんな秋空と出会えた感動の喜び。

 

雲一つない秋晴の空に出会えると、かならずこの句をくちずさむ。

そうすると空と心が通じたように思えるから不思議だ。

昔からそうだったけれど、詩歌の力はすごいと思う。

普通に話しても通じないものを、うたを詠うことによって、

閉ざされた扉が開かれる。それは現世に限らず、

神も人間も森羅万象すべてのものに対して。

 

俳句を詠む、とは詠う(うたう)こと。

今改めて書く句ではなく、詠う句でありたいと思う。

 

 

2010年10月18日

 

秋の天より金の羽根銀の羽根    由季

 

(あきのてんより きんのはね ぎんのはね)

 

 

 

流星も入れてドロップ缶に蓋    今井 聖

 

(りゅうせいも いれてどろっぷかんに ふた)

 

ドロップ缶という響きがとてもなつかしい。

子供の頃、ドロップ缶を手に持っているだけでも

何か特別な気持がして嬉しかったのを思い出す。

缶にドロップがあたってガチャガチャと音を立てる感じや、

取り出し口の丸い穴から中身を幾度も覗いたこと。

取り出してドロップの色を選ぶ楽しさ。

半透明で一つ一つが宝石みたいな形をしていた。

蓋も嵌め込み式のペコッとしたもので、きちっとはまりすぎると

開けられなくなったりもした。

そんな一つ一つがとてもなつかしい。

サクマのドロップと覚えていたけれど、正確にはサクマドロップと

サクマ式ドロップの二種類あって、缶の色も赤と緑と違っていた。

私は赤色の缶を覚えているから、サクマ式ドロップの方だったんだなあ。

 

流星をドロップ缶に入れられたらどんなにか楽しいだろう。

きっと缶の中でキラキラしながら素敵な音を立てるに違いない。

 

 

2010年10月17日

 

銀漢や一生分といふ逢瀬     由季

 

(ぎんかんや いっしょうぶんというおうせ)

 

 

 

眠るとき銀河がみえてゐると思ふ   石田郷子

 

(ねむるとき ぎんががみえて いるとおもう)

 

実際にそういう経験はないけれど、

でも、なんだかこの感じは分かる。

眠る前に見た夜空の景がまなうらに残って

明かりを消した暗闇の中で目を閉じると

銀河がふたたびまなうらに浮かぶ。

屋根の上には空高く銀河が広がっている。

似たような句に

 

眠りても旅の花火の胸にひらく 大野林火

 

という句があって、眠るときの景の余韻というと

この句を思い出すが、林火の句は純粋に花火の

美しさと旅の余韻の高揚が美しく詠まれていて、

すこし趣は異なる。

「銀河」の句はおそらく高揚ではない。

むしろ作者と銀河とのしずかな対話のように感じる。

それは「眠りても」という一回性に対して「眠るとき」に普遍性を

感じるからだろう。

 

銀河は天の川のこと。

秋になるとその輝きも一層目立つようになるので、秋の季語になっている。

伝説では会いたき人と人との間を隔てるという銀河。

作者のなかにもそんな銀河の流れが見えているのかもしれない。

 

2010年10月16日

 

まつはりて来る秋蝶をそのままに   由季

 

(まつわりてくる あきちょうを そのままに)

 

 

 

秋蝶の驚きやすきつばさかな   原 石鼎

 

(あきちょうの おどろきやすき つばさかな)

 

秋蝶は秋になっても飛んでいる蝶。

秋に飛んでいる蝶は紋白蝶やムラサキシジミなど小ぶりな蝶が多いので、

「つばさ」というと少し大袈裟なようにも思えるが、

そこに作者の捉えた対象の存在の大きさが表現されているのだろう。

秋は空気が澄んでいるので、人も物音に敏感になる。

「驚きやすきつばさかな」にはそんな秋の気配の中を飛んでいる

蝶の姿が鮮明に描かれている。

人影や少しの風にも敏感に反応して飛び立ってゆく蝶。

「驚きやすき」という言葉に、作者の秋蝶に寄り添う心が

見えるようにも思う。

 

 

2010年10月15日

 

桔梗のきつぱりと風通しけり    由季

 

(きちこうの きっぱりとかぜ とおしけり)

 

 

 

桔梗や男も汚れてはならず   石田波郷

 

(きちこうや おとこもけがれてはならず)

 

桔梗は秋の草花の代表的なものの一つ。

「ききょう」、または漢字を音読みして「きちこう」と読む。

青紫色で星形の凛とした花を咲かせる。

 

男も汚れてはいけない、と波郷は言う。

「汚れ」を「よごれ」と読むか「けがれ」と読むか。

鑑賞を書くにあたって読みを改めて考えてみたが、やはり自然と

そう読んでいるように「けがれ」とした。

「よごれ」では何だか文字通りそのままのような気がするからだ。

波郷はもっと精神的な清らかさを言っているのだろう。

どんな状況にあっても精神が荒んでしまってはいけない。

それは男も同じである、と。

 

「きちこう」という音の潔さが、心の気高さとよく響きあっている。

 

 

2010年10月14日

 

さざなみや竜胆の紺ゆるませて   由季

 

(さざなみや りんどうのこん ゆるませて)

 

 

 

りんどうの露のひとつぶ水の星    宇井十間

 

(りんどうの つゆのひとつぶ みずのほし)

 

水の星はわたしたちが住む地球のこと。

地球が青いということは、初の宇宙飛行に成功した

宇宙飛行士ガガーリンが伝えて有名になったが、

地球は青い水の星なのだ、と今改めて思う。

 

りんどうにのった一粒の露。朝露の汚れない光の粒。

その光の粒から、水の星へと飛躍することによって、

普段意識することのない世界をこの句は見せてくれる。

句に流れるしんとした不思議なしずけさ。

「りんどうの露」から感じるひんやりとした空気が

より一層そのしずけさを際立たせる。

今であって、今でない世界。

そんな世界が描かれているようにも思う。

 

 

2010年10月13日

 

花束の中の秋草退職す   由季

 

(はなたばの なかのあきくさ たいしょくす)

 

 

 

秋草の近づけばみな花つけて    岩田由美

 

(あきくさの ちかづけばみな はなつけて)

 

「夏草」というと青々と茂る夏の草のことだが、

「秋草」は秋の草ではなく、秋に咲く草の花のこと。

秋草という言葉だけを見ると間違いやすい。

季節によって花にも風情があるが、夏は木の花、秋は草の花という感じ。

 

秋は野原や道端の名もなき草も花を咲かせる。

それは細やかで小さな花。

「近づけばみな」というのはその通りだなあと思う。

見る人がいなくても秋草は変わらず咲いているけれど、

気が付いてくれる人がいれば、きっと嬉しいに違いない。

 

 

2010年10月12日

 

誰がこぼしゆきし団栗路地裏に   由季

 

(たがこぼしゆきしどんぐりろじうらに)

 

 

 

団栗の二つであふれ吾子の手は   今瀬剛一

 

(どんぐりの ふたつであふれ あこのては)

 

団栗を二つ乗せただけでいっぱいになってしまう吾が子の小さな手。

「二つであふれ」に親である作者の新鮮な驚きと、小さな存在に対する

愛おしさが溢れている。

ふたつであふれあこのては

「あ」のリフレインもやさしく聞こえて来る。

 

吾子の手に乗せた団栗。それは命の力が詰まった実でもある。

芽を出してやがて大きな木へと成長する、そんな命の響き合いをも

感じる。

 

2010年10月11日

 

立つ風にすこし遅れて野紺菊   由季

 

(たつかぜに すこしおくれて のこんぎく)

 

 

 

歯を磨く東京の朝体育の日   竹岡佐緒理

 

(はをみがく とうきょうのあさ たいいくのひ)

 

今日は国民の祝日、体育の日。

東京オリンピックの開会式の日を記念して作られた祝日で

2000年から10月の第二月曜日となった。

連休を作るための改定だが、体育の日は10月10日と覚えているので、

一日ずれると、こころなしか変な感じがする。

 

この句は「東京の朝」がとてもいい。

つまり、日頃の生活圏は東京ではないということだ。

東京に住んでいたら当たり前で、こんな風には詠まない。

久し振りに上京して迎えた朝。

歯を磨くという日常の事柄から、日常とは違う一日のはじまりを巧みに

描いている。体育の日という健康的な響きもまた理屈なくいい。

 

作者は早大俳研の後輩。俳句甲子園で活躍して、在学中は俳研の幹事長も務めていた。

今は帰郷して仕事に就いているという。昨日のため(?)に久々に上京してきてくれた。

 

 

2010年10月10日

 

秋天となりゆくちから鴟尾光る   由季

 

(しゅうてんとなりゆくちから しびひかる)

 

 

 

秋の雨しづかに午前をはりけり   日野草城

 

(あきのあめ しずかにごぜん おわりけり)

 

休日の雨。

どこにも行かず久し振りに家で過ごす一日。

 

コーヒーを入れて、読みたかった本をひらく。

外には降り続く雨の音。

何にも邪魔されない、しずかな時間。

 

「午前」という時の把握が、そんな情景を想像させる。

 

 

2010年10月 9日

 

秋冷や打てば文字出るキーボード   由季

  

(しゅうれいや  うてばもじでる  きいぼうど)

 

 

 

秋冷やモローの白き一角獣    天野小石

   

(しゅうれいや  もろーのしろき  いっかくじゅう)

 

ひんやりと身につのり来る大気とモローの描く一角獣。

画家ギュスターヴ・モローは聖書や神話を題材に精神性高い

美しい絵を描いた。

 

――手に触れるものも、目に見えるものも信じない。

目に見えないもの、ただ感じているものだけを信じている――

                            ギュスターヴ・モロー

 

モローの言葉はその描かれた作品の数々を見れば、とてもよく分かる。

 

パリのクリュニー中世美術館に有名な一角獣のタペストリーがある。

モローの一角獣はそのタペストリーに触発されて描かれたという。

六枚のタペストリーすべての織りに暗示的な意味がたくされていて、

その美しさは見るものを魅了するが、タペストリーの一角獣はモローのそれと

比べると思いのほか可愛いらしい。

 

モローの一角獣はモローのものとして凛と幻想的な魅力を放っている。

秋冷がひたと寄り来るように、見ているうちにふっと心の中にまで入ってくるようだ。

 

一角獣 モロー.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年10月 8日

 

澄む水と揺れをひとつにしてゐたり   由季

 

(すむみずと ゆれをひとつに していたり)

 

 

 

 

十棹とはあらぬ渡しや水の秋    松本たかし

       

 (とさおとは あらぬわたしや みずのあき)

 

「秋の水」は秋に重点があるが、

「水の秋」の重点は水。

どちらも澄んだ水に秋を感じているが、ニュアンスの違いがある。

 

前者は澄み渡った秋の清らかな水そのもので、

後者は清涼感溢れる水や水辺から感じる秋の風情。

大景から小景へと、小景から大景への視野の移行に違いを感じる。

 

この句は断然「水の秋」。

「秋の水」では川辺の風情が消えてしまう。

 

「十棹とはあらぬ渡し」がなんとも上手い。

舟頭が棹で川底を突きつつ舟を進めるが、十も突かぬほどで向こう岸に

ついてしまうほど川幅がせまいという、そんな渡しの情景を無駄なく

簡潔に表現している。表現にまで爽やかさを感じる句だ。

さわさわと川辺に揺れる芒や荻、水のきらめき、清涼な風。

舟上で感じた秋があますことなく詠まれている。

 

 

2010年10月 7日

 

新涼や干潟に残る波のあと   由季

 

(しんりょうや ひがたにのこる なみのあと)

 

 

 

秋の水ひかりの底を流れをり   井越芳子

 

(あきのみず ひかりのそこを ながれおり) 

 

秋になると、大気だけでなく次第に水も澄んでゆく。

川や池や湖。 泳ぐ魚影まではっきりと見える。

 

実景としてはこの秋の水は川だと思う。

清らかで滑らかな秋の川。澄んだ水が川底まで光を通している。

 

秋はひかり。

実景から目を離せば、秋そのものの底を流れてゆく水。

そんな静かな光の流れを感じる。

 

 

2010年10月 6日

 

さびしさのいつしか薄れゑのこ草    由季

 

(さびしさの いつしかうすれ えのこぐさ)

 

 

葛の花来るなといつたではないか   飯島晴子

 

(くずのはな くるなといったではないか)

 

山野に咲く葛の花。 街中ではあまり見かけることがなく、

葛の花といえば、

 葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり

 の釈迢空の歌が思い出されるように、どこかさびしい山路の風情がある。

 

葛の花の咲く頃になると思い出すこの句にも、胸をきゅっとつかまれるような

寂しさがある。

「来るなといつたではないか」

振り返りつつこの言葉を投げつける、厳しくもどこかさみしげな表情を思う。

越えて来てはいけない目に見えぬ一線がそこにあるかのよう。

 

「見てはいけない」「来てはいけない」という約束を

いくたびも破ってきたいにしえの物語にこの句もつながっている。

だからこそ、この句には一句の奥に言い知れぬ切なさがあるのだと思う。

 

 

2010年10月 5日

 

あまさずに秋の来てゐる岬かな    由季

 

(あまさずに あきのきている みさきかな)

 

 

 

秋の雲立志伝みな家を捨つ    上田五千石

 

(あきのくも りっしでんみな いえをすつ) 

 

天高く広がる秋の雲。

空を仰ぎながら、己を顧みている。

 

立志伝とは志を立てて苦悩や葛藤の末に大儀を成し遂げた

歴史上の人物の伝記。

そういう人たちはみな志のために「家を捨つ」という。

「家を捨つ」という言葉が印象的で強く響くが、

家とはつまり故郷のことだ。

 

現代でも同じ思いを抱いている人は多くいるだろう。

作者もその中のひとりであった。

ただこの句からは、何かを為したいということだけではないもっと強いものを感じる。

それは、成功して故郷に錦を飾るというものではなく、

作者の中にある「風狂」へのあこがれのようなものなのかもしれない。

 

空高く広がって、はるか彼方にまでもたなびいているような秋の雲。

立志伝とその高き広がりが響き合うが、やはり「秋」の一語が切なさを誘う。

 

 

2010年10月 4日

 

金木犀水辺のごとく光りけり   由季

 

(きんもくせい みずべのごとく ひかりけり)

 

 

 

見えさうな金木犀の香なりけり   津川絵理子

 

(みえそうな きんもくせいの かなりけり)

 

この数日でどこからともなく微かに金木犀の香を感じるようになった。

花は見えなくても金木犀が近くにあることをその香が教えてくれる。

 

視覚よりも嗅覚で咲いていることに気づく花がある。

春は沈丁花、夏は梔子の花。

秋は金木犀だ。

香りを辿って花にいきあたるのはとても楽しい。

 

もうまもなく、その香は「見えさうな」ほどになる。

 

 

2010年10月 3日

 

露草のひらきて星のつめたさに   由季

 

(つゆくさの ひらきてほしの つめたさに)

 

 

 

露草も露のちからの花ひらく   飯田龍太

 

(つゆくさも つゆのちからの はなひらく)

 

しっとりと濡れているような瑠璃色の花をひらく露草。

朝の濡れた空気のなかで、その色はもっとも美しくかがやく。

徳富蘆花は露草の美しさを喩えて言う。

 

つゆ草を花と思ふは誤りである。

花では無い、あれは色に出た露の精である。

                     『みみずのたはごと』

 

露草というはかない名前をつけられたその花も、

露ほどのはかないちからで花を咲かせている。

「露のちから」とは、はかなさに秘められた強さだ。

 

そして、それは露草のいのちそのものを言いとめている。

 

2010年10月 2日

 

爽やかやからだにかすかなる浮力   由季

 

(さわやかや からだにかすかなるふりょく)

 

 

 

秋風の馬上つかまるところなし   正木ゆう子

 

(あきかぜの ばじょうつかまる ところなし)

 

疾走する馬とともに、風の中に消えゆきそうだ。

 

秋風に吹かれると、体がふっと軽くなるような心地がするが、

馬上ではことさらそんな感じがすると思う。

視界の高さも広がりも、驚くほど日常とは違う。

風もストレートに感じるだろう。

 

他のどの季節の風でもこの感覚は味わえない。

秋風だからこそ、「つかまるところなし」という

身の透けてゆくようななんともいえないたよりなさを

感じることができる。

 

正木さんの句には、実景を詠みながら、どこか別の世界へと

誘ってくれる力がある。

シンプルな言葉をいかに選んでいかに表現するか。

 

そこに、力の秘密がある。

 

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2010年10月 1日

 

さざなみの果てのみづいろ小鳥来る   由季

 

(さざなみの はてのみずいろ ことりくる)

 

 

小鳥来るここに静かな場所がある   田中裕明

 

(ことりくる ここにしずかな ばしょがある)

 

帰ってゆくものがあれば、渡ってくるものがある。

秋の空は鳥たちの移動の空。

本能とはいえ、はるか長い道のりをひたすらに渡り来るその姿を

美しいと思う。途中で命を落すものもきっとあるだろう。

 

越冬のために北方より日本に渡ってくる小鳥たちが、

秋の訪れを告げる。

この句にあるのは、作者のサンクチュアリ(聖域)。

「ここ」はどこを思い描いてもいい。森の木陰でも、湖畔のベンチでも。

心の中だっていいのだから。

 

 「静かな場所」とは詩が生まれようとする場所なのだと思う。

 

 

 

2010年9月30日

 

径ゆづるとき秋草に濡れにけり   由季

 

(みちゆずるとき あきくさに ぬれにけり)

 

 

 

草に音立てて雨来る秋燕   深見けん二

 

(くさにおと たててあめくる あきつばめ

 

「秋燕」は帰るべくしてまだ残っている燕のこと。

秋は子育てを終えた燕が南へと帰っていく季節。

日本で越冬する燕もいるが、大方は秋分を過ぎた頃を境に姿が見えなくなる。

まだ空を飛び交っている燕に、折からの雨。

草を打って強く降りくる雨は、まるで燕の旅立ちを促がすかのようだ。

一段と深まる秋に、「寒くなる前に帰るんだよ」と燕を案じているこころを感じる。

 

 

2010年9月29日

 

吾亦紅しづかに花となりにけり   由季

 

(われもこう しずかにはなと なりにけり)

 

 

秋すでに空の深みといふところ   由季

 

(あきすでに そらのふかみと いうところ)

 


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