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2011年1月24日

 

白鳥の羽の喝采やまざりし      由季

 

 

 

 

2010年12月26日

 

寒禽の強く短く枝渡る   山田節子

 

(かんきんの つよくみじかく えだわたる)

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冬の清澄な大気を切るように、俊敏に動く冬の鳥。

冬はその寒さゆえか、野性に生きるものたちの命が

より一層輝いているように見える。

枝を渡りゆく姿にさえも心を奪われてしまうのは、

そこに光るものを感じたからだろう。

その光とは生きる強さといってもいい。

「強く短く」には寒禽の命そのものが詠みとめられている。

 

作者は「海」の大先輩。私が入会した頃に同人会長をされていたが、

間もなくして病に倒れ世を去られた。若輩ものの私をいつも優しく迎え入れて

くださったその穏やかなお顔が今でも浮んでくるが、俳句が大好きで、あとあと

聞いた話では、「俳句の鬼」と言われていたという。

一度も句座をともにしないうちに逝かれてしまったことが残念だ。

「俳句の鬼」。そんな風に言われる人はいくらも居ないだろう。

惜しい人を亡くしたものだと、今しみじみと思う。

 

 

 

 

2010年12月23日

 

かいつぶりさびしくなればくぐりけり    日野草城

 

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かいつぶりは鴨よりも小さな水鳥で、水面にもぐって小魚や蝦をとる。

湖や公園の池を眺めていると、ぱっと潜っては少し離れたところから

ぴょこんと顔を出すかいつぶりの愛らしい姿を見ることができる。

どこか得意気にも見えるその姿を、作者は「さびしくなればくぐりけり」という。

さびしさに耐えかねて潜る。まるで一人遊びをしているように。

夕暮れ時の人もまばらになった静かな湖の景が浮んでくる。

一句の思いは、かいつぶりに託された作者自身の心境だろう。

水面に潜るというかいつぶりの行為に、自分の中でしか解消しえない、

作者自身の心の内の寂しさが重なる。

 

 

2010年12月17日

 

水鳥や別れ話は女より     鈴木真砂女

 

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男女の別れには、それを少しも予期していない別れと、

暗黙のうちに互いに覚悟をしている別れとがある。

前者は例えば、相手にほかに好意を持つ人が出来てしまった場合。

後者は例えば、そのまま関係を続けていくことに何らかの障害が

立ちはだかっている場合だろう。

この句の別れがどうであったか。

その答えはこの句の下五が語っている。

女性である作者があえて「女より」という。

そこからは、いつまでも今のままの変らない関係ではいられないことを

心の隅に置きながらも、逢瀬を重ねずにはいられない男女の姿が見えてくる。

男も女も、この恋愛が行き場のないものであることは、わかっているのだ。

そしてやがてはどちらかが言い出すのではないかと覚悟している別れ話で

あることも。だからこの別れは後者の別れ、と私は思う。

そして先に覚悟を決めたのは女の方であった。

「羅や人悲します恋をして」「死なうかと囁かれしは蛍の夜」

「蛍火や女の道をふみはづし」「すみれ野に罪あるごとく来て二人」

真砂女の残した恋愛句の数々は、どきりとさせられるものばかりだ。

波乱に満ちた人生の中、人を愛する情念というものに、

ある意味、素直に生きた人であったのだろう。

愛がなくなったがゆえの別れに未練はない。

そうではなく、道ならぬ恋に未練を残しながらも、別れることを決心する。

そんな真砂女に「〈身を引く〉という愛し方もあるものなのよ」ということを

教えられているような気もする。

さて、女が切り出した別れ話のゆくえは、どうなったのだろう。

しばらくつづく男の沈黙。

しんしんとあたりに降り積もる研ぎ澄まされた冬の寒さ。

二人の間に横たわる、切なきまでに張り詰めた静寂を、

水鳥の羽ばたきがときおり壊していく。

別れ話のゆくえ、ひいては二人のゆくえは今、

すべて男の言葉に委ねられたのである。

 

(同人誌「気球」2006冬号「由季の恋愛日和」より転載)

 

 

 

 

2010年12月13日

 

寒禽の思ひ切るときかがやけり     由季

 

(かんきんの おもいきるとき かがやけり)

 

 

 

 

 

2010年11月21日

 

水鳥のしづかに己が身を流す    柴田白葉女

 

(みずどりの しずかにおのが みをながす)

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この時季、湖や公園の池には鴨やかいつぶり、ばん等の

水鳥たちがたくさん集まっている。

餌を取るために水面下に潜っては、少し離れたところからぴょこん

と現れるその姿は愛らしくて、見ていて飽きることがない。

水中では水掻きを忙しなく動かしている水鳥だが、

水上の姿はゆったりとしずかで、ただ浮いているようにも見える。

水の流れに逆らわず流れてゆくかに見える水鳥。

「しづかに己が身を流す」に水鳥に投影された作者自身の姿が重なる。

 

 

2010年11月 9日

 

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す   正木ゆう子

 

(かのたかに かぜとなづけて かいころす)

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 鷹は冬の鳥。この句も昨日の句と同じ、自由を奪われた鳥の姿を詠んでいる。

 

「かの鷹に」というこの出だしが好きだ。

「かの」は漢字では「彼の」と書いて「あの」という言い方と同義だが、

「あの」には具体的な距離をそこに感じるのと比べて「かの」という言い方

には、対象の存在がそこに在って無いように感じるからだ。

「かの鷹」は作者の心に浮ぶ鷹の姿であって、また不特定の鷹をも指している。

 

大空を我がもの顔に悠々と飛びまわってこそ鷹は鷹として生きられる。

自由を失った鷹はもはや鷹ではないのだ。

この句はその生の憐れさを、「風」という名でばさりと切って言い放っている。

 

 

 

2010年11月 8日

 

檻の鷲さびしくなれば羽搏つかも   石田波郷

 

(おりのわし さびしくなれば はうつかも)

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檻の中で飼われている鷲。

波郷が「鶴」を創刊するときに詠んだ「吹きおこる秋風鶴を歩ましむ」も

動物園で作った句だというから、これも動物園の鷲かもしれない。

檻の中の止まり木にじっと動かずにいる鷲の姿を見たことがあるが、

それは何者をも寄せ付けぬような孤高の美しさであった。

とは言え、猛禽類である鷲が、せまい檻の中でじっとしている姿は

やはり哀れを誘う。

檻の鷲をじっと見つめる作者の目は鷲の孤独と向きあっているのだろう。

「さびしくなれば」と鷲に寄り添う心が切ない。

 

 


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