初雪の天のひとひら手に掬ふ 由季
(はつゆきの てんのひとひら てにすくう)
2010年12月30日
2010年11月17日
2010年11月16日
天地のあいだにほろと時雨かな 高濱虚子
(あめつちの あいだにほろと しぐれかな)
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虚子が捉えた時雨。
時雨の降りざまを詠みながら、その裏に人生を感じさせる
ところが虚子のすごさだ。
客観写生を説いた虚子だが、写生の奥にはいつも
深い意味が隠されている。
表面だけ味わっていては、虚子の本当のすごさはわからない。
俳句ですべてを捉えようとした稀有の一人だと思う。
俳句の歴史は「芭蕉の百年後に虚子という人がいました」
となる、と先日の句会で師が話していたが、本当にそうだろう。
芭蕉も虚子も他の俳人には無い、底知れぬ深さがある。
2010年11月15日
うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山 實
(うつくしきあぎととあえりのとしぐれ)
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初冬の頃、急にぱらぱらと降っては止み、また降り出す雨が「しぐれ」。
もともと京都で生れた季語で、時雨というと京都の冬の風情なのだ。
残念ながら、私はまだ本場のしぐれに出会ったことがない。
出会えた人の話がとても魅力的な雨の風情だったので、
それ以来、京の時雨には、いつかはその風情を味わってみたい
という特別な思いがある。
掲句は能登の時雨。
以前仕事で輪島を訪れた時、出迎えて案内をしてくださった人が
「この辺は雨が多いんですよ。
冬は弁当忘れても傘忘れるな、というくらいで」
と教えてくれた。その日は降ったり止んだりの雨。
能登の厳しい寒さの中で、「ああ、これが能登時雨なんだな」
と思ったことを思い出す。
雨に濡れた空気が、しんしんと肺の奥深くまで入っていく感覚は
今でも忘れられない。
時雨の中ですれ違った若い女の人の美しいあぎと。
「あぎと」とは「あご」のことだ。
傘をさして少し俯きがちに急ぎゆく美しい女の人の姿が浮かぶ。
「あぎと」に焦点を当てて詠んでいるが、もちろん顔も美しいことを
想像させてなんともいえぬ色香である。しかも品のある艶めかしさ。
句も景もうつくしい。
この句にはどこか一幅の日本画を思わせるようなうつくしさがある。