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2010年12月30日

 

初雪の天のひとひら手に掬ふ      由季

 

(はつゆきの てんのひとひら てにすくう)

 

 

 

2010年12月20日

 

此木戸や錠のさされて冬の月    其角

 

(このきどや じょうのさされて ふゆのつき)

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錠がさされて閉ざされた厚い城門。その上には皓皓と冬の月が照っている。

「此木戸や」のような上五の置き方は、現代の俳句ではあまり使われない。

そのもったいぶった感じにはむしろ新鮮なほどたっぷりとした諷詠がある。

「木戸」とは城門。

『去来抄』にこの句にまつわるエピソードが書かれている。

其角は下五を「冬の月」にするか「霜の月」にするか迷っていた。

そこで掲句を芭蕉に送り、その旨を書き添えたところ、文字が詰まっていたため、

芭蕉は「此木戸(このきど)」が「柴戸(しばのと)」と読めた。それゆえ、

其角ほどの人がどちらにしようかと思い煩うほどの句ではないとして

「柴戸や錠のさされて冬の月」として『猿蓑』に入集したが、あとあと「此木戸」で

あったことに気がつき、「柴戸にあらず、此木戸なり。かかる秀逸は一句も大切な

れば、たとえ出板に及ぶとも、いそぎ改むべし」と、大慌てで指示したという話。

芭蕉の読み間違えが発端なのだが、そのことによって言葉の斡旋で

秀逸と並ほどの違いが生じることが窺えて面白い。

大学時代にこの話を読んだ時は、さしてこの違いがピンとこなかったのだが、

今改めて見てみると、確かに大きく違うものだ。

「柴戸」では侘び住まいの庵の垣根に月が差しているという情景で、しみじみと

した情感は伝わってはくるが、ただそれだけの景色。

「此木戸」では固く閉ざされた城門が眼前に聳え、黒々とした城門とそれを

照らし出すかのように皓皓と差す月光との明暗が実に鮮やか。

しんしんとした静けさの中に、研ぎ澄ました冬月の輝きが際立って見えてくる。

垣根の錠と城門の錠を比べてみるだけでも、そのスケールの違いは顕著だ。

「霜の月」とすると、城やあたりに降りた霜が月光を反射して、より一層寒々

とした景になる。芭蕉と去来は「此木戸」であれば其角が下五を思い煩った

わけが納得いったのである。

そしてこの句、私も「冬の月」がいい。

「霜の月」では光が分散して焦点がぼやける感じがするし「霜」が少しうるさい。

高みから差し込むような「冬の月」だからこそ一句に静謐な風格を感じる。

 

 

 

2010年11月24日

 

いつの間に昼の月出て冬の空     内藤鳴雪

 

(いつのまに ひるのつきでて ふゆのそら)

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雲一つない冬の空に、うっすらとかかる昼の月。

「いつの間に」という表現が素直すぎて巧い句では

ないけれど、何だかとても共感できる句だ。

「いつの間に」には「もう昼の月が出ている!」というちょっとした

驚きがある。冬空の青を透かすようにかかる昼の月が儚くも綺麗だ。

内藤鳴雪は明治・大正時代の俳人。

昔の人という感じがしていたけれど、自分と同じところに目を留めて

それを素直に詠んでいる句を見て嬉しくなった。

鳴雪は飄逸恬淡な人柄で、とても愛された人らしい。

この句の衒いのなさにも、そんな人柄が感じられるようにも思う。

漢学を大原観山に学び、俳句はその娘の子、正岡子規に学んだ。

〈詩は祖父に俳句は孫に春の風〉。こんな句も残している。

 

 

2010年11月17日

 

冬晴や空より降りてきたる猫   由季

 

(ふゆばれや そらよりおりてきたるねこ)

 

 

 

2010年11月16日

 

天地のあいだにほろと時雨かな     高濱虚子

 

(あめつちの あいだにほろと しぐれかな)

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虚子が捉えた時雨。

時雨の降りざまを詠みながら、その裏に人生を感じさせる

ところが虚子のすごさだ。

客観写生を説いた虚子だが、写生の奥にはいつも

深い意味が隠されている。

表面だけ味わっていては、虚子の本当のすごさはわからない。

俳句ですべてを捉えようとした稀有の一人だと思う。

俳句の歴史は「芭蕉の百年後に虚子という人がいました」

となる、と先日の句会で師が話していたが、本当にそうだろう。

芭蕉も虚子も他の俳人には無い、底知れぬ深さがある。

 

 

2010年11月15日

 

うつくしきあぎととあへり能登時雨   飴山 實

 

(うつくしきあぎととあえりのとしぐれ)

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初冬の頃、急にぱらぱらと降っては止み、また降り出す雨が「しぐれ」。

もともと京都で生れた季語で、時雨というと京都の冬の風情なのだ。

残念ながら、私はまだ本場のしぐれに出会ったことがない。

出会えた人の話がとても魅力的な雨の風情だったので、

それ以来、京の時雨には、いつかはその風情を味わってみたい

という特別な思いがある。

 

掲句は能登の時雨。

以前仕事で輪島を訪れた時、出迎えて案内をしてくださった人が

「この辺は雨が多いんですよ。

冬は弁当忘れても傘忘れるな、というくらいで」

と教えてくれた。その日は降ったり止んだりの雨。

能登の厳しい寒さの中で、「ああ、これが能登時雨なんだな」

と思ったことを思い出す。

雨に濡れた空気が、しんしんと肺の奥深くまで入っていく感覚は

今でも忘れられない。

時雨の中ですれ違った若い女の人の美しいあぎと。

「あぎと」とは「あご」のことだ。

傘をさして少し俯きがちに急ぎゆく美しい女の人の姿が浮かぶ。

「あぎと」に焦点を当てて詠んでいるが、もちろん顔も美しいことを

想像させてなんともいえぬ色香である。しかも品のある艶めかしさ。

句も景もうつくしい。

この句にはどこか一幅の日本画を思わせるようなうつくしさがある。

 

 

 

 


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