CHURYOふたたび
絶えず〈眼と心と技術〉の訓練をすることです。
彫刻家は一個の像の中に表現のための〈空間〉と〈時間〉
をできうる限りつめこまねばならない宿命を持たされていて、
それには高度な精神と技術が必要になってくるからです。
―佐藤忠良―
展示作品の傍らに掛けられてあった忠良の言葉。
はっと思って書き留めました。
〈彫刻家〉を〈俳人〉に置き換えて、自分の中に瞬時に響くものが
あったからです。俳句の場合は〈できうる限りつめこまねば〉という
あたりがニュアンスが違って、省略だったりしますけれど、
でも定型の中へ凝縮する、ということと同義かなと思いつつ、
何よりも「絶えず〈眼と心と技術〉を訓練すること」という言葉に
身を正される思いがしました。まさに俳句も同じ。
そうでなければ、人を惹き付ける作品は生まれないということを
強く思います。
私は俳句は書くものではなく、詠うものだと思っているのですが、
それでもやはり〈技術〉は必要なのです。
絶えず訓練するというのはかなり大変なことです。
適当なところで妥協してしまいがちですから。
でもこうあらねばいけないと、改めて思っています。