タグ「秋 植物」 の検索結果(1/2)

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2010年11月 4日

 

秋海棠といふ名も母に教はりし     石田郷子

 

(しゅうかいどうというなもははにおそわりし)

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薄紅色の小花を少し垂れ下げて俯くように咲く秋海棠。

緑道や公園の少し日陰になるようなところに咲いていて、

名前は知らなくても見たことがある、と思うような花だ。

 

秋海棠が咲いているのを見てふと足を止める。

花から思い起こされる母との思い出。母が教えてくれた、たくさんのこと。

そういえば、この花の名前も母に教えてもらったんだっけ。

あれは確か一緒に買物に出た道すがらだったかな。

「この花、秋海棠っていうのよ」 「ふーん」

あの時は何気なく聞いていたけれど、ちゃんと今でも覚えている。

 

花の名前は母との記憶につながっている。

それは、母が一つ一つ折に触れて教えてくれたから。

それはまるで見えない宝物を残してくれるかのように。

 

母ここに佇ちしと思ふ龍の玉

 

この句も同じ作者の句。掲句を思い出すと対のように思い出す句だ。

そしていつも心の奥の方が、じーんと熱くなってくる。

 

 

 

2010年10月30日

 

ひかり飛ぶものあまたゐて末枯るる   水原秋桜子

 

(ひかりとぶものあまたいて うらがるる)

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「末枯れ」は晩秋になって草木が葉先や枝先から枯れ始めることをいう。

「末(うら)」とは端とか末という意味で、草木の先端のことを指しているのだが、

何かこの「うら」という響き自体に、すでに秋の終りの物淋しさを感じてしまうのは、

「心淋しい(うらさびしい)」という音の響きをそこに重ねてしまうからだろうか。

鳥の渡りや草木の枯れに見る季節の移り変わりに、人々は古来より心を動かされてきた。

ひかり飛ぶものとは秋になって山から降りてきた小鳥たちや渡りの鳥たちの姿だろう。

「ひかり」と「枯れ」。対比するかのように置かれている言葉に実はどちらのいのちの

かがやきをも詠みとめられていることに気づく。

草木にとって枯れることは冬を迎えるための準備。そこにも見えない力が光っている。

 

 

2010年10月25日

 

梨食うてすつぱき芯にいたりけり   辻 桃子

 

(なしくうて すっぱきしんに いたりけり)

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梨をまるごと齧るということはあまりないけれど、「すっぱき芯」の味には覚えがある。

この句は皮をくるりと剥いてそのまま齧って食べたのだ。

そして最後にすっぱい芯にいきあたった。

梨という果実を余すことなくこの句は言い得ていて、妙に納得してしまう。

梨というとその甘さや瑞々しさに重きを置かれた詠み方がされるが、そういう一切の

概念を排した対象の捉え方が実に新鮮。

「すつぱき芯」は文字通りの芯でもいいが、心理的な酸っぱさと捉えてみても

それはそれで面白い。

 

 

2010年10月24日

 

花薄風のもつれは風が解く   福田蓼汀

 

(はなすすき かぜのもつれは かぜがとく)

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花薄は穂が出て花の開いた薄。

穂のところが少しふわふわとして、日のひかりを明るく透す。

風に吹かれてもつれた薄を、つぎの風がやさしくほぐす。

「風」のリフレインが心地よく、表現の巧さには脱帽するが、

人の手の及ばぬ自然の摂理をも感じさせてその懐は深い。

― 風のもつれは風が解く ―

読むたびに、薄を渡るさわさわとした風の音が聞こえる。

 

 

2010年10月21日

 

雨粒がさそふ雨粒石榴の実    由季

 

(あまつぶが さそうあまつぶ ざくろのみ)

 

 

 

2010年10月21日

 

寂しいと言いわたくしを蔦にせよ   神野紗希

 

(さびしいといい わたくしを つたにせよ

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この句を読むと、わたしはいつも宮崎駿のアニメに出てくるような印象的な目をした女の子の

顔を思い出す。例えば「天空の城ラピュタ」のシータや「もののけ姫」のサンの顔。

話の内容は全然違うのだけれど、どこか不器用で、うまく思いを伝えることが出来なくて、

でも大切な人を守りたい、というようなもどかしさがそう思わせるのかもしれない。

たぶん、大人になりきってしまったらこうは言えない。

「蔦にせよ」と作者は呼びかけているけれど、それは心の中の声。

「寂しい」と言ってくれれば、私はあなたを守ってあげることが出来るのに。

それでも「蔦」の一語は切なく響く。

切なく思うのは、たぶん大人になりきってしまったから。

 

 

 

2010年10月15日

 

桔梗のきつぱりと風通しけり    由季

 

(きちこうの きっぱりとかぜ とおしけり)

 

 

2010年10月15日

 

桔梗や男も汚れてはならず   石田波郷

 

(きちこうや おとこもけがれてはならず)

 

桔梗は秋の草花の代表的なものの一つ。

「ききょう」、または漢字を音読みして「きちこう」と読む。

青紫色で星形の凛とした花を咲かせる。

 

男も汚れてはいけない、と波郷は言う。

「汚れ」を「よごれ」と読むか「けがれ」と読むか。

鑑賞を書くにあたって読みを改めて考えてみたが、やはり自然と

そう読んでいるように「けがれ」とした。

「よごれ」では何だか文字通りそのままのような気がするからだ。

波郷はもっと精神的な清らかさを言っているのだろう。

どんな状況にあっても精神が荒んでしまってはいけない。

それは男も同じである、と。

 

「きちこう」という音の潔さが、心の気高さとよく響きあっている。

 

 

2010年10月14日

 

さざなみや竜胆の紺ゆるませて   由季

 

(さざなみや りんどうのこん ゆるませて)

 

 

2010年10月14日

 

りんどうの露のひとつぶ水の星    宇井十間

 

(りんどうの つゆのひとつぶ みずのほし)

 

水の星はわたしたちが住む地球のこと。

地球が青いということは、初の宇宙飛行に成功した

宇宙飛行士ガガーリンが伝えて有名になったが、

地球は青い水の星なのだ、と今改めて思う。

 

りんどうにのった一粒の露。朝露の汚れない光の粒。

その光の粒から、水の星へと飛躍することによって、

普段意識することのない世界をこの句は見せてくれる。

句に流れるしんとした不思議なしずけさ。

「りんどうの露」から感じるひんやりとした空気が

より一層そのしずけさを際立たせる。

今であって、今でない世界。

そんな世界が描かれているようにも思う。

 

 

2010年10月13日

 

花束の中の秋草退職す   由季

 

(はなたばの なかのあきくさ たいしょくす)

 

 

2010年10月13日

 

秋草の近づけばみな花つけて    岩田由美

 

(あきくさの ちかづけばみな はなつけて)

 

「夏草」というと青々と茂る夏の草のことだが、

「秋草」は秋の草ではなく、秋に咲く草の花のこと。

秋草という言葉だけを見ると間違いやすい。

季節によって花にも風情があるが、夏は木の花、秋は草の花という感じ。

 

秋は野原や道端の名もなき草も花を咲かせる。

それは細やかで小さな花。

「近づけばみな」というのはその通りだなあと思う。

見る人がいなくても秋草は変わらず咲いているけれど、

気が付いてくれる人がいれば、きっと嬉しいに違いない。

 

 

2010年10月12日

 

誰がこぼしゆきし団栗路地裏に   由季

 

(たがこぼしゆきしどんぐりろじうらに)

 

 

2010年10月11日

 

立つ風にすこし遅れて野紺菊   由季

 

(たつかぜに すこしおくれて のこんぎく)

 

 

2010年10月 6日

 

さびしさのいつしか薄れゑのこ草    由季

 

(さびしさの いつしかうすれ えのこぐさ)

 

2010年10月 6日

 

葛の花来るなといつたではないか   飯島晴子

 

(くずのはな くるなといったではないか)

 

山野に咲く葛の花。 街中ではあまり見かけることがなく、

葛の花といえば、

 葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。 この山道を行きし人あり

 の釈迢空の歌が思い出されるように、どこかさびしい山路の風情がある。

 

葛の花の咲く頃になると思い出すこの句にも、胸をきゅっとつかまれるような

寂しさがある。

「来るなといつたではないか」

振り返りつつこの言葉を投げつける、厳しくもどこかさみしげな表情を思う。

越えて来てはいけない目に見えぬ一線がそこにあるかのよう。

 

「見てはいけない」「来てはいけない」という約束を

いくたびも破ってきたいにしえの物語にこの句もつながっている。

だからこそ、この句には一句の奥に言い知れぬ切なさがあるのだと思う。

 

 

2010年10月 4日

 

金木犀水辺のごとく光りけり   由季

 

(きんもくせい みずべのごとく ひかりけり)

 

 

2010年10月 4日

 

見えさうな金木犀の香なりけり   津川絵理子

 

(みえそうな きんもくせいの かなりけり)

 

この数日でどこからともなく微かに金木犀の香を感じるようになった。

花は見えなくても金木犀が近くにあることをその香が教えてくれる。

 

視覚よりも嗅覚で咲いていることに気づく花がある。

春は沈丁花、夏は梔子の花。

秋は金木犀だ。

香りを辿って花にいきあたるのはとても楽しい。

 

もうまもなく、その香は「見えさうな」ほどになる。

 

 

2010年10月 3日

 

露草のひらきて星のつめたさに   由季

 

(つゆくさの ひらきてほしの つめたさに)

 

 

2010年10月 3日

 

露草も露のちからの花ひらく   飯田龍太

 

(つゆくさも つゆのちからの はなひらく)

 

しっとりと濡れているような瑠璃色の花をひらく露草。

朝の濡れた空気のなかで、その色はもっとも美しくかがやく。

徳富蘆花は露草の美しさを喩えて言う。

 

つゆ草を花と思ふは誤りである。

花では無い、あれは色に出た露の精である。

                     『みみずのたはごと』

 

露草というはかない名前をつけられたその花も、

露ほどのはかないちからで花を咲かせている。

「露のちから」とは、はかなさに秘められた強さだ。

 

そして、それは露草のいのちそのものを言いとめている。

 

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