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2011年1月19日

 

さきがけの花のこぼるる寒の梅        由季

 

 

 

 

 

 

2011年1月18日

 

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり   日野草城

                                     『人生の午後』

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句集『人生の午後』は昭和28年に刊行された第7句集。

31年に54歳で亡くなった草城晩年の作品が並んでいる。

21年に病に倒れてから、亡くなるまでの満10年間、ほとんど寝たきりの生活

であったから、この句集も病床で詠まれたものだ。

あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。

寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。

それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。

冬薔薇に投影された草城の志が一句を貫いている。

10代で「ホトトギス」雑詠に入選し、20歳で巻頭をとり、また23歳の若さで

「ホトトギス」課題句選者に推されるという、他に例を見ない躍進をした草城の

スタートはまさに順風満帆であった。

 

春の夜やレモンに触るる鼻のさき

春の灯や女は持たぬのどぼとけ

 

などの垢抜けた表現や、艶のある句を詠んだ草城の新しさには右に出るもが

いなかったであろうし、物議を醸した「ミヤコホテル」の連作も、その軽い甘さには、

現代の感覚に通じるものがある。けれども、戦争という時代の波は容赦なく襲いかかり、

次第に高まっていく言論弾圧の風潮の中で、華々しかった俳句人生の中断を余儀なく

された。

約4年の空白を経て再び俳壇へ戻ってきたのは昭和21年。

草城の再スタートは病に倒れた年でもあった。

 

切干やいのちの限り妻の恩

初咳といへばめでたくきこえけり

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 

 『人生の午後』に収められたこれらの句には、かつての草城が見せた華やかな世界

は無い。病に臥し、職を失った清貧のくらしの中で、かつての華やかさと引き換えに

得たものは、あるがままの自分を詠むことだったのだと思う。

病臥の10年は、新しい草城を生み出した。そして死の間際まで俳句を詠みつづけた

という草城の生き方に、冒頭の句の潔さが重なるのである。

 

                          同人誌「気球」2006号(終刊号)より転載

 

 

 

 

 

 

 

                              

2010年12月19日

 

冬菫こゑを出さずに泣くことも      由季

 

(ふゆすみれ こえをださずに なくことも)

 

 

 

 

2010年12月11日

 

あはあはと日の通ひくる冬桜     由季

 

(あわあわと ひのかよいくる ふゆざくら)

 

 

 

2010年12月10日

 

神垣や奥拝まるる冬桜    野村喜舟

 

(かみがきや おくおがまるる ふゆざくら)

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神垣とは神社の周囲の垣のことで、神域を他と区別するためのもの。

仏像やキリスト像を拝むのとは異なり、神社のご神体は直接見て拝む

ことが出来ない。ご神体は目に触れぬところにあって、

そこに向かって人は拝む。

この句を読んで、わたしは伊勢神宮の内宮の光景が浮かんだ。

天照大神のいる神様の領域は高い塀が四方を巡っていて

見ることが出来ないが、皆、その見えない奥へ向かってしずかに目を閉じている。

その奥にいらっしゃるという神様の息吹を感じようとしているがごとくに。

冬桜は冬に咲く白色一重の小振りの桜。

最後に置かれた「冬桜」に、拝む人のこころのありようが見えてくるように思う。

 

 

 

 

 

2010年12月 7日

 

冬菊のまとふはおのがひかりのみ    水原秋桜子

 

(ふゆぎくの まとうはおのが ひかりのみ)

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菊の花盛りは秋だが、冬になっても咲いているものを冬菊という。

秋のまばゆい光の中で輝きあうように咲いていた菊の姿とは違い、

枯れを深める景色の中で一つ、一つ静かに咲いている菊。

それも、小振りの菊の姿が見えてくる。

冬菊だけでなく、冬薔薇や冬菫、冬桜など「冬」を冠せられた花々はみな、

寒空の下で自らの力を頼りに咲いているように思える。

「ひかり」とはその自らの力をいっているのだろう。

輝くいのちの光。そこには静かな力がある。

けれども、「まとふはおのがひかりのみ」は他のどの花でもなく、

冬菊であるのがいい。

冬菊にある清浄な空気が、ひかりの質を儚さだけでない崇高なもの

へと導いているように思えるからだ。

冬菊の纏うひかりには、侵しがたい美しさが宿っているように思う。

 

 

 

2010年12月 4日

 

完璧なまでの省略大冬木   日下野仁美

 

(かんぺきなまでのしょうりゃく おおふゆき)

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好きな季節があるように、季語にも好みの季語というものがある。

私にとって「冬木」は気に入りの季語のひとつ。

「ふゆき」と口に出すだけで、言葉に宿っている詩が立ち現れて

くるようなところが好きだ。

 

葉を落として枝ばかりになった大樹。

そのシンプルな立ち姿を「省略」と捉えた。

省略というと不完全で中途半端な印象があるが、

冬木の場合はそれが完全形。

しかも「完璧なまでの」と駄目押しのように言ったところが

この句の面白さだ。枝を存分に広げて堂々と立つ

この上なく完璧な冬木の大樹が見えてくる。

 

 

2010年12月 3日

 

つなぎやれば馬も冬木のしづけさに     大野林火

 

(つなぎやれば うまもふゆきの しずけさに)

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冬木の静けさ。しんと張り詰めたあたりの空気。冬木に繋がれた馬。

繋いだ馬の姿を冬木の佇まいの静かさと同質のものとして

捉えているところに惹かれる。

そして冬木と馬を結びつける「つなぎやれば」の一語にも。

「繋がれて」や「繋がれし」では馬も冬木もどこか遠い。

違いの魅力をうまく言えないのがもどかしいが、

「つなぎやれば」には、言葉の熱(温かさ)のようなものを感じるのだ。

それは作者の馬を見る視線の温かさに通じていて、

言外にそれを感じているからかもしれない。

 

 

 

2010年12月 2日

 

一対の冬木しづかに触れ合ひぬ    由季

 

(いっついのふゆき しずかにふれあいぬ)

 

 

 

2010年11月25日

 

彼の人には会へぬ桜の返り咲く    由季

 

(かのひとにはあえぬさくらの かえりざく)

 

 

 

2010年11月23日

 

銀杏散る耀く言葉あるごとく     由季

 

(いちょうちる かがやくことば あるごとく)

 

 

 

 

2010年11月18日

 

返り花きらりと人を引きとどめ   皆吉爽雨

 

(かえりばな きらりとひとを ひきとどめ)

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返り花とは冬のあたたかな日に、草木が時ならぬ花を咲かせること。

帰り花とも書き、時ならぬということで狂い花とも言う。

ほつほつと一輪、二輪と咲いている姿は可憐で、

違う季節にふと咲いてしまったその儚さは、旬の姿とは違う感動がある。

 

「きらり」は返り花の放った光。

咲いていることを気付いてほしいと放ったいのちの光が

人をひきとどめている。

 

 

2010年11月13日

 

むさしのの空真青なる落葉かな    水原秋桜子

 

(むさしのの そらまさおなる おちばかな)

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「画や歌でばかり想像している武蔵野を

その俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい」

 

これは国木田独歩の小説『武蔵野』の中の一文。

武蔵野というと、私は井の頭公園や三鷹のあたりを

思い浮かべる。それは武蔵野イコール雑木林という

イメージがあるからだ。

独歩の言う「武蔵野をその俤ばかりでも」というのは

実は雑木林になる以前の、萱や芒が一面に広がる

荒涼たる野原だったころの武蔵野であるという。

武蔵野の俤は、時代によって違うようだ。

秋桜子の「むさしの」はもう雑木林になった武蔵野の景。

落葉して木々の間に見えた武蔵野の青空を詠んでいるのだろう。

開発とともに消えてゆく武蔵野の景が少しでも多くこれからも残って

いてほしいものだ。

 

 

 

2010年11月12日

 

冬薔薇石の天使に石の羽    中村草田男

 

(ふゆそうび いしのてんしに いしのはね)

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薔薇は一季咲きのものと、四季咲きのものがあり、

咲いている姿は一年を通して見ることができる。

俳句で詠むときには「薔薇」といえば夏。

夏は薔薇の盛りで大輪の豪華な花を咲かせるが、

冬でも大きな薔薇は咲くので、秋や冬だからといって

花が小ぶりというわけではない。

ただ、薔薇が纏っている空気が明らかに違う。

冬薔薇は凛とした空気の中で咲く姿。そしてその上に

見えるのはコバルトを流したような冬の青空。

 

西洋風の庭園だろう。薔薇園に置かれた天使の像。

「石の天使に石の羽」の表現には当たり前なことを

再発見するような新鮮さがある。

確かに石の天使は羽も石。もちろん羽ばたくことはい。

冬薔薇と石の天使。

その出会いは何とも侵しがたい。

薔薇のいのちがふっと石の天使に吹き込まれはしないだろうか。

ふと、そんなことを想像してみたくなる。

 

 

 

 

 

 

2010年11月10日

 

さざなみの鱗のやうに冬はじめ    由季

 

(さざなみの うろこのように ふゆはじめ)

 

 

 


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