冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり 日野草城
『人生の午後』
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句集『人生の午後』は昭和28年に刊行された第7句集。
31年に54歳で亡くなった草城晩年の作品が並んでいる。
21年に病に倒れてから、亡くなるまでの満10年間、ほとんど寝たきりの生活
であったから、この句集も病床で詠まれたものだ。
あたりのものが次第に枯れ色を強めていく中で、凛と咲いている冬薔薇。
寒さに凍えるような時でも、薔薇は薔薇として、咲かなければならない。
それが与えられた生をまっとうできる、唯一のことであるかのように。
冬薔薇に投影された草城の志が一句を貫いている。
10代で「ホトトギス」雑詠に入選し、20歳で巻頭をとり、また23歳の若さで
「ホトトギス」課題句選者に推されるという、他に例を見ない躍進をした草城の
スタートはまさに順風満帆であった。
春の夜やレモンに触るる鼻のさき
春の灯や女は持たぬのどぼとけ
などの垢抜けた表現や、艶のある句を詠んだ草城の新しさには右に出るもが
いなかったであろうし、物議を醸した「ミヤコホテル」の連作も、その軽い甘さには、
現代の感覚に通じるものがある。けれども、戦争という時代の波は容赦なく襲いかかり、
次第に高まっていく言論弾圧の風潮の中で、華々しかった俳句人生の中断を余儀なく
された。
約4年の空白を経て再び俳壇へ戻ってきたのは昭和21年。
草城の再スタートは病に倒れた年でもあった。
切干やいのちの限り妻の恩
初咳といへばめでたくきこえけり
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
『人生の午後』に収められたこれらの句には、かつての草城が見せた華やかな世界
は無い。病に臥し、職を失った清貧のくらしの中で、かつての華やかさと引き換えに
得たものは、あるがままの自分を詠むことだったのだと思う。
病臥の10年は、新しい草城を生み出した。そして死の間際まで俳句を詠みつづけた
という草城の生き方に、冒頭の句の潔さが重なるのである。
同人誌「気球」2006号(終刊号)より転載