2010年11月30日

 

聖樹から聖樹へ街のつづきをり     由季

 

(せいじゅからせいじゅへまちのつづきおり)

 

 

 

聖樹

クリスマス.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

「海」12月号の発送、無事終わりました。

みなさま、お疲れさまでした。

今年最後の一冊、何事もなく皆様のお手許に

届くことを願って。

 

帰りに三茶のカフェまめひこに寄りました。

きなこのビスケット、やっぱり美味しい。

この時期になるとメニューにあがる焼きりんごも

とても美味しそうでした。

テーブルの上には大きなクリスマスツリー。

明日からはいよいよ12月。

身も心も忙しくなりそうです。

 

 

2010年11月29日

お知らせ♪

はな.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

「俳句研究」冬号(角川SSコミュニケーション)が発売しました!

「俳誌展望」と句集評を執筆しています。

お読みいただけると嬉しいです。

 

「俳句研究」は通販です。書店には置いていないため、直接お申し込みください。

 

 

 

引く波は見えず十一月の海     由季

 

(ひくなみはみえずじゅういちがつのうみ)

 

 

 

2010年11月28日

 

朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ     星野立子

 

(ほおのきのおちおり ほおのきはいずこ)

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柿落葉にしても銀杏落葉にしても、たいていその木の元にたまっている

けれど、朴落葉は葉が大きいせいか、意外に遠くまで飛ばされて

きていることがある。

先日訪れた平林寺でも、まったくこの句とまったく同じ思いをした。

しかも、朴落葉は他の落葉と比べてびっくりするくらい大きい。

だから特別に木を探したくなるのだ。

でも周りを見上げてみても、それらしき葉をつけた木々は見当たらない。

まさに「朴の木はいづこ」。

立子の句は詠めそうでいて、意外に詠めない。

そのあたり、まさしく虚子のDNAだな、と思う。

 

 

 

2010年11月27日

 

あたたかき十一月もすみにけり     中村草田男

 

(あたたかき じゅういちがつもすみにけり)

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11月も最後の週末。

歳時記の中だとどこか漠然としていたものが、

実際にその物や季節を体験するとすとんと腑に落ちる句がある。

私にとってこの句はその中のひとつ。

小春日のつづく11月は冬といっても暖かな日和が多い。

しかも年の終わりに近づいているにも関わらず時間の流れが穏やかだ。

12月に入ると一気に年末の慌しさとなる。

11月という穏やかに過ぎた日々への感慨。

「十一月の」ではなく「十一月も」には、11箇月という歳月の積み重ね

の感慨も同時に含まれている。

この時季に口ずさむと、何とも味わい深い一句。

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年11月26日

 

白鳥に似てセーターの厚き胸     由季

 

(はくちょうににて せーたーのあつきむね)

 

 

 

柚子

柚子.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

高円寺のクラシック喫茶「ネルケン」の庭にあった大きな柚子。

柚子の明るい黄色は気分まで明るくなるようで大好きです。

柚子の実は秋の季語。でも、柚子の実は冬の生活でも大活躍します。

お鍋に添えたり、冬至に健康を願って柚子湯に入ったり。

我が家では正月のお雑煮に皮を削いで香り付けに入れたりもします。

柚子って実がなるまでにとっても時間がかかるんですよね。

「柚子の大馬鹿18年」なんて言ったりして。

たくさん実をつけていたこのお庭の柚子。

植えられて初めての実をつけた時はきっと喜ばれたんだろうなあ。

店主のマダムの品のよい笑顔を思い浮かべながら、ちょっと想像してみました。

 

今日は仕事の打合せでした。

春から新しい講座が始まることになりました!!

詳細はまた改めて告知させていただきます。

 

 

 

2010年11月25日

 

彼の人には会へぬ桜の返り咲く    由季

 

(かのひとにはあえぬさくらの かえりざく)

 

 

 

返り花?

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昨日は吟行会で埼玉県新座市にある平林寺へ行ってきました。

志木駅で降りて、そこからバスに乗って平林寺へ。

冬紅葉が見事ということで、日にちを選んで計画してくださった

のですが、まさにグッドタイミング。

山門からすでに燃えるように色づいた紅葉が迎えてくれました。

もう少ししたら見事な紅葉も散り始めてしまうでしょう。

紅葉も見事でしたが、平林寺は武蔵野の面影を見ることが出来る

場所であることも分かりました。

少し前に、独歩の武蔵野の話を書きましたが、平林寺もやっぱり

雑木林の頃の武蔵野の面影。平林寺については田山花袋が

「武蔵野の昔の匂いを嗅ごうとするには野火止(のびどめ)の

平林寺付近が好いね」と語ったとのこと。野火止は地名にもなっていて、

境内には火事の見張り台に作られた野火止塚が残っていました。

 

野火止塚残る紅葉のただなかに    由季

 

吟行の帰りに道端で桜の花を見つけました。

冬桜か桜の返り花か。冬桜にしては花弁が大きいので

返り花かもしれません。

はかなくて、ほとんど目立たないほどなのに、

なぜか引き止められてしまいました。

 

 

2010年11月24日

 

いつの間に昼の月出て冬の空     内藤鳴雪

 

(いつのまに ひるのつきでて ふゆのそら)

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雲一つない冬の空に、うっすらとかかる昼の月。

「いつの間に」という表現が素直すぎて巧い句では

ないけれど、何だかとても共感できる句だ。

「いつの間に」には「もう昼の月が出ている!」というちょっとした

驚きがある。冬空の青を透かすようにかかる昼の月が儚くも綺麗だ。

内藤鳴雪は明治・大正時代の俳人。

昔の人という感じがしていたけれど、自分と同じところに目を留めて

それを素直に詠んでいる句を見て嬉しくなった。

鳴雪は飄逸恬淡な人柄で、とても愛された人らしい。

この句の衒いのなさにも、そんな人柄が感じられるようにも思う。

漢学を大原観山に学び、俳句はその娘の子、正岡子規に学んだ。

〈詩は祖父に俳句は孫に春の風〉。こんな句も残している。

 

 

2010年11月23日

 

銀杏散る耀く言葉あるごとく     由季

 

(いちょうちる かがやくことば あるごとく)

 

 

 

 

万両

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勤労感謝の日、みなさまはいかがお過ごしでしたか。

私は杉並の俳句講座でした。

 

万両や千両が赤い実をつけ初めて目に触れるようになりました。

秋の草花が終わって色の無くなった杉並詩歌館の庭にも、

点々とともるように色付いていました。

万両、千両を見ると、なぜか冬を強く感じます。

初めてこの実の名前と姿の違いを覚えたのが鎌倉の寿福寺で、

張り詰めたような冬の空気をその姿とともに思い出すからかもしれません。

万両は実が下向き、千両は上向き。万は千より多くて重いから。

間違えないように、そんな風に覚えたことも思い出しました。

ちなみに、十両もありますよ。十両は藪柑子のこと。

他の二つに比べて丈が低く、これはちょっと見付けにくいです。

 

 

 

2010年11月22日

 

てつぺんにまたすくひ足す落葉焚    藺草慶子

 

(てっぺんに またすくいたす おちばたき)

.............................................................................................

落葉焚は童謡の「たき火」の歌を思い出すせいか、

どこかノスタルジーな気分にさせてくれる季語だ。

私が小さい頃は、冬になると家の庭先や畑で

落葉焚をしている煙があがっているのを見ることができた。

学校でも落葉焚をしたりしていたけれど、今でもしているのだろうか。

火災の原因になるので、今では昔ほど大らかに焚火が出来なくなって

いるように思う。

小学校の裏庭で、たくさんの落葉を掻き集めて、その中にさつま芋を

新聞紙だったか、銀紙だったかにくるんで入れた落葉焚の楽しかったこと。

ぶすぶすと煙を上げる落葉の中で燻されていくお芋を今か今かと待ちわびた。

ときどき棒で突くと、ところどころふわっと炎を上げる。

火の強弱の加減は忘れてしまったが、落葉を足して調整していたその光景は

何となく今でも覚えている。

 

掲句、落葉の嵩が減ってきて、また残りの落葉を上から足してゆく。

「てつぺん」の一語が落葉焚を活写していて、ありありと光景が目に

浮んでくるのである。

 

 

夢の旅

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旅には夢見る旅と余儀ない旅がある

                     沢木耕太郎

 

昨日行ってきたホテルオークラでの沢木耕太郎氏講演会で

印象的だった言葉です。

沢木氏は、世界中で僕には行ってみたいと思うところが

もうほとんどないような気がすると言っていました。

余儀ない旅はあっても、夢見る旅はおそらくたいていをし尽くして

しまったという意味だと思います。

余儀ない旅とは、簡単に言えば仕事の旅。

夢見る旅とは、他者の都合に合わせず、自分の思うままにする旅。

夏だったか、オックスフォードに在籍している友人の息子さんに会いに

行って大学寮のゲストルームに滞在し、談話室で学生達に混ざって

よく聞き取れない英語に耳を傾けながら語り合っているときに、

「こういう旅はもうこれが最後かもしれないなぁ」とふと思った、とも言っていました。

 

夢は思い描いているうちが夢で、

それがかなって継続的になってしまうと夢でなくなってしまう。

余儀ない旅もおそらくもともとは夢の旅だったはず。

でも余儀ない旅があるからこそ、また新たな夢の旅に発てるような・・・。

冒頭の言葉には私なりに考えさせられるものがありました。

「旅」を仕事や趣味や生活に置き換えてみてもいいかもしれません。

それぞれに思うところがあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

2010年11月21日

 

水鳥のしづかに己が身を流す    柴田白葉女

 

(みずどりの しずかにおのが みをながす)

.............................................................................................

この時季、湖や公園の池には鴨やかいつぶり、ばん等の

水鳥たちがたくさん集まっている。

餌を取るために水面下に潜っては、少し離れたところからぴょこん

と現れるその姿は愛らしくて、見ていて飽きることがない。

水中では水掻きを忙しなく動かしている水鳥だが、

水上の姿はゆったりとしずかで、ただ浮いているようにも見える。

水の流れに逆らわず流れてゆくかに見える水鳥。

「しづかに己が身を流す」に水鳥に投影された作者自身の姿が重なる。

 

 

2010年11月20日

 

人波に揉まれ熊手のおかめ笑む    由季

 

 

二の酉

二の酉.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は、若手俳人の仲間たちと酉の市吟行でした。

三の酉まである年はこころなしかもう少し余裕があったような

記憶があるのですが、今年は二の酉までということもあって、

二の酉である昨日は、驚くほどの人出で大賑い。

新宿の花園神社に辿り着くと、すでに入り口から参拝の長蛇の列で、

こんな人混みに飛び込む心の準備が出来ていなかったせいか

人波に流されながら、しばらく呆然としてしまいました。

酉の市は熊手市ともいって、福を呼び込む熊手や縁起物を売っています。

熊手に小判や招き猫、大入袋などの飾りが商売繁盛に繫がるので、

会社関係や商売の人たちがやはり目立ちました。

大きな福を呼び込もうと景気よく大金を叩いて熊手を買ってゆく様子は

異様な活気に満ちていて、何か別世界にいるような心地がしたほどです。

両親に頼まれた熊手を求めようと、私も一生懸命手頃で良さそうなものを

物色していたのですが、次第にその活気に呑まれてだんだんと気が大きく

なってしまったようです。

5千円くらいで探していた熊手が最終的には1万五千円に!!

場の空気って怖いですね。しかも縁起物の目出度い雰囲気は

それに一層輪をかけて冷静な判断を鈍らせるものです。

小さい熊手とあわせ全部で一万八千円。少しまけてもらいました。

個人の熊手としては奮発したほうでしょう。(そうでもないのかな?)

この大きな熊手でたくさんの福を呼び寄せたいものです。

 

夜は居酒屋で句会。二の酉の夜は和やかに更けていきました。

 

 

2010年11月19日

 

俳諧の慾の飽くなき熊手買ふ    富安風生

 

(はいかいの よくのあくなき くまでかう)

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面白い句だ。

「俳諧の慾の飽くなき」と大きく出ながらも、

「熊手買ふ」がちょっと他力本願みたいに思えるからだ。

俳諧の慾は尽きることはない。

これでいいのだということは無いと風生はいう。

「俳諧の慾」とは自身の作品の深化も含めた広義の慾であろう。

「俳句」という呼び名が一般的になっていた風生の時代に

敢えて「俳諧」といっているところに、そんな風生の思いを感じる。

それでも、信心は大事。

酉の市で熊手を買って、縁起物の熊手で俳諧の福まで呼び込もう

と勢いこんでいる、そんな心の内まで見えてくるようだ。

 

 

2010年11月18日

 

返り花きらりと人を引きとどめ   皆吉爽雨

 

(かえりばな きらりとひとを ひきとどめ)

.............................................................................................

返り花とは冬のあたたかな日に、草木が時ならぬ花を咲かせること。

帰り花とも書き、時ならぬということで狂い花とも言う。

ほつほつと一輪、二輪と咲いている姿は可憐で、

違う季節にふと咲いてしまったその儚さは、旬の姿とは違う感動がある。

 

「きらり」は返り花の放った光。

咲いていることを気付いてほしいと放ったいのちの光が

人をひきとどめている。

 

 

2010年11月17日

 

冬晴や空より降りてきたる猫   由季

 

(ふゆばれや そらよりおりてきたるねこ)

 

 

 

落葉道

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音立てて落葉の風となりにけり    由季

 

寒くなりましたね。

桜落葉が色とりどりに道を染めていて、

いつもの道が新鮮です。

 

今日は、これから句会で八丁堀へ。

会場へ向かう途中に公園があり、

そこの猫たちを見つけるのが楽しみなのです。

たいてい大きな木の下や、ベンチの上にちょこんと

居るのですが、まったく見ない日もあります。

黒猫が多くて、白とブチが少し。

それほど寄っては来ません。(食べ物もってないからかな?)

でも行き帰りに見つけては、

「くろ~」と声をかけて挨拶しています。

もう顔ぐらいは覚えてくれていて、

あっ、また来てる、と思ってくれていたらいいな。

 

 

2010年11月16日

 

天地のあいだにほろと時雨かな     高濱虚子

 

(あめつちの あいだにほろと しぐれかな)

.............................................................................................

虚子が捉えた時雨。

時雨の降りざまを詠みながら、その裏に人生を感じさせる

ところが虚子のすごさだ。

客観写生を説いた虚子だが、写生の奥にはいつも

深い意味が隠されている。

表面だけ味わっていては、虚子の本当のすごさはわからない。

俳句ですべてを捉えようとした稀有の一人だと思う。

俳句の歴史は「芭蕉の百年後に虚子という人がいました」

となる、と先日の句会で師が話していたが、本当にそうだろう。

芭蕉も虚子も他の俳人には無い、底知れぬ深さがある。

 

 

2010年11月15日

 

うつくしきあぎととあへり能登時雨   飴山 實

 

(うつくしきあぎととあえりのとしぐれ)

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初冬の頃、急にぱらぱらと降っては止み、また降り出す雨が「しぐれ」。

もともと京都で生れた季語で、時雨というと京都の冬の風情なのだ。

残念ながら、私はまだ本場のしぐれに出会ったことがない。

出会えた人の話がとても魅力的な雨の風情だったので、

それ以来、京の時雨には、いつかはその風情を味わってみたい

という特別な思いがある。

 

掲句は能登の時雨。

以前仕事で輪島を訪れた時、出迎えて案内をしてくださった人が

「この辺は雨が多いんですよ。

冬は弁当忘れても傘忘れるな、というくらいで」

と教えてくれた。その日は降ったり止んだりの雨。

能登の厳しい寒さの中で、「ああ、これが能登時雨なんだな」

と思ったことを思い出す。

雨に濡れた空気が、しんしんと肺の奥深くまで入っていく感覚は

今でも忘れられない。

時雨の中ですれ違った若い女の人の美しいあぎと。

「あぎと」とは「あご」のことだ。

傘をさして少し俯きがちに急ぎゆく美しい女の人の姿が浮かぶ。

「あぎと」に焦点を当てて詠んでいるが、もちろん顔も美しいことを

想像させてなんともいえぬ色香である。しかも品のある艶めかしさ。

句も景もうつくしい。

この句にはどこか一幅の日本画を思わせるようなうつくしさがある。

 

 

 

 

飯桐の実

飯桐の実.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はこれから南青山へ。

100人くらい集まる「海」の先生の内輪のお祝い会へ向かいます。

お天気もってくれるといいのですが。

 

写真は葡萄の房のような赤い実をつけた飯桐(いいぎり)の実。

高いところにあるので、素通りしてしまうと気がつきませんが、

目線を上にして歩くと見つけることができます。

葉は落ちて木々と実だけになった姿はもっと素敵です。

どうして飯桐というのか不思議でしたが、

調べてみたら、この葉でおにぎりを包んだからなのだそう。

 

そういわれてみると、なるほど、ちょうどいい大きさの葉ですね。

 

 

2010年11月14日

 

生きるの大好き冬のはじめが春に似て    池田澄子

 

(いきるのだいすき ふゆのはじめが はるににて)

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小春日和も今日あたりまでで、

来週からは天気も崩れて冷え込みが厳しくなるらしい。

 

この句も小春日和を詠んだ句だ。

冬のはじめの暖かさを、そのまま素直に言っている。

「生きるの大好き」も「冬のはじめが春に似て」も表現は子供みたいに

素直で無邪気な感じがするけれど、なんだかこの句は深いなあと思う。

子供でもなく、若者でもなく、ある程度人生を経験した人でないと

たぶんこの季節は選べない。

春の穏やかさでなく、夏の力強さでなく、秋の爽やかさでもなく、

ましてや冬の厳しさでもなく、冬に入りたての微笑むような陽気に

出会えた思いもかけぬうれしさ。

もちろん、小春の浮き立った気分が「生きるの大好き」と素直に言わせた

句と鑑賞してもいいのだけれど、冬のはじめが春に似ていると言った作者の

言葉の中に、どこか人生の面白さみたいなものを感じさせてくれるのである。

そしてその面白さが「生きるの大好き」という思いを輝かせているように思う。

 

 

 

2010年11月13日

 

むさしのの空真青なる落葉かな    水原秋桜子

 

(むさしのの そらまさおなる おちばかな)

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「画や歌でばかり想像している武蔵野を

その俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい」

 

これは国木田独歩の小説『武蔵野』の中の一文。

武蔵野というと、私は井の頭公園や三鷹のあたりを

思い浮かべる。それは武蔵野イコール雑木林という

イメージがあるからだ。

独歩の言う「武蔵野をその俤ばかりでも」というのは

実は雑木林になる以前の、萱や芒が一面に広がる

荒涼たる野原だったころの武蔵野であるという。

武蔵野の俤は、時代によって違うようだ。

秋桜子の「むさしの」はもう雑木林になった武蔵野の景。

落葉して木々の間に見えた武蔵野の青空を詠んでいるのだろう。

開発とともに消えてゆく武蔵野の景が少しでも多くこれからも残って

いてほしいものだ。

 

 

 

2010年11月12日

 

おほぞらの色に吹かれて冬薔薇     由季

 

(おおぞらの いろにふかれて ふゆそうび)

 

 

 

 

 

冬薔薇石の天使に石の羽    中村草田男

 

(ふゆそうび いしのてんしに いしのはね)

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薔薇は一季咲きのものと、四季咲きのものがあり、

咲いている姿は一年を通して見ることができる。

俳句で詠むときには「薔薇」といえば夏。

夏は薔薇の盛りで大輪の豪華な花を咲かせるが、

冬でも大きな薔薇は咲くので、秋や冬だからといって

花が小ぶりというわけではない。

ただ、薔薇が纏っている空気が明らかに違う。

冬薔薇は凛とした空気の中で咲く姿。そしてその上に

見えるのはコバルトを流したような冬の青空。

 

西洋風の庭園だろう。薔薇園に置かれた天使の像。

「石の天使に石の羽」の表現には当たり前なことを

再発見するような新鮮さがある。

確かに石の天使は羽も石。もちろん羽ばたくことはい。

冬薔薇と石の天使。

その出会いは何とも侵しがたい。

薔薇のいのちがふっと石の天使に吹き込まれはしないだろうか。

ふと、そんなことを想像してみたくなる。

 

 

 

 

 

 

小春日和

薔薇.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

東京は今日も小春日和。

窓を開けたら、暖かい日射しの中に

ほのかな風の冷たさを感じました。

風の感じも春と似ていますね。

ただ、春の冷たさは日に日に和らいでいきますが、

冬のほのかな冷たさは日に日に増して、

やがて本格的な冬がやってくる。

そこのあたりが同じ陽気でも心に感じるものが

違うのです。

 

今日は海誌の編集と来週頭にある会の打合せ。

そこで司会をするので、今日あたりから準備です。

小春日和に、仕事もはかどりそうです。

 

 

2010年11月11日

 

小春日やりんりんとなる耳環欲し   黒田杏子

 

(こはるびや りんりんとなる みみわほし)

..............................................................................................

立冬を過ぎて、穏やかな晴れの日が続いている。

「小春日」は冬の初めのころの春を思わせる暖かな陽気のことを言う。

ここ数日はまさに小春日だ。

俳句を始めた頃、「小春」という響きが冬の季語であることが新鮮だった。

そして冬の暖かさに「小春」と名づける昔の人の季に対する遊び心を

心憎いと思ったものだ。

「小春」は陰暦十月の異称。ほかに「小六月」とも言う。

陰暦の季節の表わし方は、表現が豊かだなとつくづく思う。

今の暦は分かりやすくて便利だけれど、やはりどこか味気ない。

 

掲句は「小春日」がとてもいい。もちろん「春」ではだめ。

ただ暖かい春では「りんりんと鳴る」が響いてこないからだ。

「りんりんと鳴る耳環欲し」という思いは、やはり小春の中にある

冬という季節と響きあっているのである。

 

 

2010年11月10日

国宝 源氏物語絵巻

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源氏物語絵巻「御法」部分(葉書より)

 

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源氏物語絵巻「御法」復元(葉書より)

 

 

五島美術館で開催している「国宝 源氏物語絵巻」を見てきました。

図録などでは幾度か見たことがありましたが、実物をしっかり見るのは

おそらく初めて。しかも今回は五島美術館が所蔵しているもの以外に

愛知の徳川美術館所蔵の絵巻とあわせて現存している絵巻の大方が

一同に見られるというのも魅力で、前から楽しみにしていたのです。

 

源氏物語絵巻は平安時代の12世紀、『源氏物語』成立から約150年後に

描かれた日本最古の絵巻物です。各帖から印象的な場面の本文を書写し

た「詞書」(ことばがき)とその場面が描かれた絵が交互に繰り返され、

今でいうと物語のダイジェスト版みたいなものですが、

その書写された「かな文字」の美しさや、「やまと絵」のかもし出す典雅な

雰囲気はただものではない空気を纏っていました。

 

今回の注目は、当時の色彩を科学的分析に基づいて再現した

「平成復元模写」が同時に展示されていること。

消えていた花の姿や、装束の色が鮮やかに蘇っていて、想像以上に

明るい色彩に驚きました。ほんとにただただ美しいという感じ。

この「源氏物語絵巻」に限らず、仏像にしても五重塔のような建造物にしても

元々の色彩が再現されると、いつもたじろぐような驚きを感じます。

十二神将も驚くような赤や緑の原色でしたし、奈良の大仏は金箔で金色

でしたし、後世の人たちが今の色の剥落した姿を愛でて拝んでいるなんて、

当時の人はきっと考えられないでしょうね。

 

でも実のところ、剥落した今の状態の方がわたしは見ていて安らぎます。

なぜかその方が心から美しいと思える。不思議ですね。

 

写真は第四十帖「御法」(みのり)。

絵巻の人物は紫の上と光源氏です。大学時代、源氏物語の演習でこの段を

担当したのを思い出して懐かしくなりました。

病の紫の上を光源氏が見舞い、明石中宮とともに、萩につく露に

はかない紫の上の命をたとえて、和歌を詠むところです。

 

おくと見るほどぞはかなき ともすれば風に乱るる萩のうは露      紫の上

ややもせば消えをあらそふ露の世におくれ先だつほど経ずもがな   光源氏

 

光源氏の思いが切ないです。

絵巻には、和歌を詠み交す二人の傍らに、風に揺れる萩が描かれていました。

 

 

 

 

 

 

 

さざなみの鱗のやうに冬はじめ    由季

 

(さざなみの うろこのように ふゆはじめ)

 

 

 

2010年11月 9日

 

かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す   正木ゆう子

 

(かのたかに かぜとなづけて かいころす)

..............................................................................................

 鷹は冬の鳥。この句も昨日の句と同じ、自由を奪われた鳥の姿を詠んでいる。

 

「かの鷹に」というこの出だしが好きだ。

「かの」は漢字では「彼の」と書いて「あの」という言い方と同義だが、

「あの」には具体的な距離をそこに感じるのと比べて「かの」という言い方

には、対象の存在がそこに在って無いように感じるからだ。

「かの鷹」は作者の心に浮ぶ鷹の姿であって、また不特定の鷹をも指している。

 

大空を我がもの顔に悠々と飛びまわってこそ鷹は鷹として生きられる。

自由を失った鷹はもはや鷹ではないのだ。

この句はその生の憐れさを、「風」という名でばさりと切って言い放っている。

 

 

 

2010年11月 8日

 

檻の鷲さびしくなれば羽搏つかも   石田波郷

 

(おりのわし さびしくなれば はうつかも)

..............................................................................................

檻の中で飼われている鷲。

波郷が「鶴」を創刊するときに詠んだ「吹きおこる秋風鶴を歩ましむ」も

動物園で作った句だというから、これも動物園の鷲かもしれない。

檻の中の止まり木にじっと動かずにいる鷲の姿を見たことがあるが、

それは何者をも寄せ付けぬような孤高の美しさであった。

とは言え、猛禽類である鷲が、せまい檻の中でじっとしている姿は

やはり哀れを誘う。

檻の鷲をじっと見つめる作者の目は鷲の孤独と向きあっているのだろう。

「さびしくなれば」と鷲に寄り添う心が切ない。

 

 

2010年11月 7日

 

冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ    川崎展宏

 

(ふゆという くちぶえをふくように ふゆ)

..............................................................................................

今日は立冬。暦の上では今日から冬になる。

それぞれの季節の立つ頃は前の季節が残っていて、季が変っても大抵

名ばかりという感じがするものだ。それでよく「暦の上では」と言ったりする

けれど、その暦の上がとっても大事。

体感だけで季節を感じていたら、古今集や源氏物語、枕草子など日本文学上の

季節の移ろいにおける豊かな情緒は生れなかったはず。

今日から冬、と思う心が、装いや調度に季節ならではの趣向を見せたり、

目に映るもの、肌で感じるもの、耳に聞こえるものの微妙な変化を気付かせて

くれるのである。

 

掲句、「冬」と言ってもそれは冬の入り口という感じ。句から厳しい寒さは感じない。

青々とひろがる空の下でひとり、「冬」と言ってみる。

「口笛を吹くやうにフユ」

言われてみれば「冬」だけが口笛を吹くように言える。まるで季節の移ろいを確かめる

一人遊びのようで、なんだかとても楽しそうだ。

アの母音が一音もないので、口をすぼめたまま言うことができて一句全体も冬使用と

いう感じ。「フユ」の表記もやがて吹き来る北風のヒューという音を思わせる。

表記や音に注目して見てもとても楽しい一句である。

 

 

2010年11月 6日

 

夕づつにまつ毛澄みゆく冬よ来よ   千代田葛彦

 

(ゆうずつに まつげすみゆく ふゆよこよ)

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「夕づつ」は漢字で書くと「夕星」。ゆうずつと言って夕方になると

西の空にいち早く点る大きな星。宵の明星とも言い、金星のことを指す。

金星の最大光度は一等星の数十倍もあるのだそうだ。

地球のすぐ近くにある惑星とはいえ、、それだけの明るさを持つがゆえに

あれほど大きく輝いて見えるのだろう。

季節は秋から冬へ移り変わろうとしている。

夕星を見上げる眼差しはすでに冬の気配をとらえて覚醒してゆくかのようだ。

「冬よ来よ」――。冬を待つ心とは、やはり強き心であろう。

夕星、まつ毛、冬。句に描かれた空気がどことなくメルヘンの世界をも感じさ

せて、ふと藤代清治の影絵を思い起した。

 

 

2010年11月 5日

 

ころがつて帽子の箱や冬支度    石田勝彦

 

(ころがつて ぼうしのはこや ふゆじたく)

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もうすぐ冬がやってくる。

本格的に寒くなる前に装いも冬の準備をする頃。

マフラーや手袋、厚手のコートに冬帽子。

帽子はたいてい箱に入れて高いところに積んでしまって置くことが多い。

それを降ろして取り出している感じが「ころがつて帽子の箱や」に

うまく出ていて、思わず納得してしまう。

季節のものを入れ替えるときの、あたりが少し物で散らかる感じも

同時に見えてくるようだ。

 

 

 

 

2010年11月 4日

マザーウォーター

マザーウォーター.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マザーウォーター」という映画を観てきました。

 

バーを営むセツコさん、喫茶店をひらくタカコさん、お豆腐を売るハツミさん。

謎多きマコトさん。それから、それから・・・・。奥行きのある人たちがたくさん出てきます。

くらしの中を流れてゆく清らかな川に引き寄せられて、どこかから流れ着いたように

この町に住んでいる。そしてすべての人をつないでゆく小さないのち。

 

人々の日常はとっても満ち足りていて、そしてどこか刹那的。

 

マザーウォーター (母なる水)

美しい町の景色と、繰り返される人と人の何気ないふれあいの中で、

じわり、じわりとタイトルにたくされた思いが伝わってくる。

そんな心に沁みてくる映画です。音楽も映像もとってもいいです。

 

どこかに、そしてどこにでもあなたの居る場所はある。

それはここかもしれないし、別のどこかかもしれない。

 

観終わったあと、わたしはこんなことを心の中に感じていました。

 

「あしたへは、ダイジなことだけもってゆく。」ってなんかいいですよね。

そんな生き方ができたら、人生は昨日とは違う色に見えてくるかもしれません。

 

 

 

秋海棠といふ名も母に教はりし     石田郷子

 

(しゅうかいどうというなもははにおそわりし)

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薄紅色の小花を少し垂れ下げて俯くように咲く秋海棠。

緑道や公園の少し日陰になるようなところに咲いていて、

名前は知らなくても見たことがある、と思うような花だ。

 

秋海棠が咲いているのを見てふと足を止める。

花から思い起こされる母との思い出。母が教えてくれた、たくさんのこと。

そういえば、この花の名前も母に教えてもらったんだっけ。

あれは確か一緒に買物に出た道すがらだったかな。

「この花、秋海棠っていうのよ」 「ふーん」

あの時は何気なく聞いていたけれど、ちゃんと今でも覚えている。

 

花の名前は母との記憶につながっている。

それは、母が一つ一つ折に触れて教えてくれたから。

それはまるで見えない宝物を残してくれるかのように。

 

母ここに佇ちしと思ふ龍の玉

 

この句も同じ作者の句。掲句を思い出すと対のように思い出す句だ。

そしていつも心の奥の方が、じーんと熱くなってくる。

 

 

 

2010年11月 3日

文化の日

秋 天.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと深い秋空。

その色の蒼さに思わず祈りました。

祈りといってもクリスチャンの祈りではなくて、自然への感謝の祈り。

自然のこの上ない美しさに出会うと、愛おしくていつもそういう思いになります。

 

空を見上げることが好きです。

空を見上げると、不思議と励まされて元気が出てくる。

『祈りの天』の栞で片山由美子さんが「空を仰ぐ人」というタイトルで評を書いて

くださったのを思い出しました。

 

空を仰ぎ、みずからを励まして俳句に向かっている人なのだろう

 

この一文をいただいたときは本当に嬉しかったな。

作品を通してわたしをわかってもらえたんだという、この上ない嬉しさ。

その言葉に、何かとても救われた思いがしたのを覚えています。

 

今日の空の蒼さは、今日だけの蒼。

だからこそ、再びは出会えないこの一瞬がとても愛おしいのです。

 

 

 

食卓にレモンと鰯文化の日    山田みづえ

 

(しょくたくに れもんといわし ぶんかのひ)

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今日は文化の日。

その名に相応しいひらけるような青天で、この日に尽くしてくれているかのようです。

叙勲のお祝いが皇居でひらかれ、街では学校の文化祭が行なわれたり、

華やかさを感じる祝日でもあります。

掲句は祝日で休みとなった日の食卓。

レモンと鰯。鰯はどんな風に料理されたものでしょう。ただ焼いただけかもしれません

が、何となくそれよりちょっと手をかけてムニエルぐらいにしている、そんな食卓を

想像します。鰯はあまり凝った料理でもいけません。あくまでも庶民的な鰯の域が

いいのです。この句のポイントは「レモン」ですね。

鰯にレモンを添えたところに、常とは違うちょっとした気持の彩りを感じさせます。

お皿の上のレモンと鰯。レモンの黄色が秋の爽やかなひかりとも引き合います。

なんだか文化の日の食卓としてこれ以上のものはないような気がしてきました。

 

秋も最後の祝日。いただいた青空に存分に秋を惜しみたいと思います。

 

 

 

2010年11月 2日

箒木(ははきぎ)

箒木草c.jpg 

 

 

 

 

 

画像をクリックすると大きく見られます。

 

 

馬事公苑のお花畑で色づいている箒木草(ほうきぐさ)を見つけました。

箒木草って紅葉するんですね!!それもとってもきれいなピンク色に。

写真のものはほんのりですが、ショッキングピンクのような派手な色になって

いるのもあって、イソギンチャクのようにも見えました。

「もうその箒木草は終りの頃ですよ」と庭師の方が言っていましたが、

草ぼうきにするものは、夏の間に刈り取って干しておくんですね。

 

箒木に影といふものありにけり    高濱虚子

 

箒木草は箒木(ははきぎ)ともいって、夏の季語です。

箒木(ははきぎ)の名で呼ぶと、とたんに文学の匂いがしてきますね。

すぐに浮んでくるのが、『源氏物語』の中の「箒木」の巻。

光源氏と頭中将らの雨夜の品定めと源氏と空蝉との出会いが描かれた巻で、

物語中でものちにドラマチックな展開へとつづいてゆく鍵となるところです。

それにしても、箒木といい空蝉といい、紫式部は名のつけ方が本当にうまい。

物語の内容や人物の性質が匂いたつようにつけられた一つ一つの名に

あらためて感心しています。

 

 

 

日のくれと子供が言ひて秋の暮    高濱虚子

 

(ひのくれと こともがいいて あきのくれ)

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「日のくれ」と子供のいった声に、日の暮に気付き、そこに秋の暮を感じている。

「秋の暮」は今では文字通り秋の夕暮れの意味でつかわれることが多いが、

もともとは秋の終わり、晩秋をさすものでもあった。

晩秋をさす「暮の秋」という季語があるので、それと区別して使われてもいるが、

「秋の暮」に晩秋の雰囲気をまとっている句も多く、そのあたりははっきりと区別する

ことはむずかしい。

この句の秋の暮は、秋の暮方と秋の終わり(晩秋)のどちらの情趣も伴っている。

それゆえ、何ともいえぬしみじみとした味わいがあるのである。

 

 

2010年11月 1日

 

夢殿の夢の天まで澄みにけり     林  誠司

 

(ゆめどのの ゆめのてんまで すみにけり)

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夢殿は法隆寺東院の本堂。行信僧都が聖徳太子の遺徳を偲び天平11年(739年)に

斑鳩宮跡に建てた八角円堂で中の厨子には聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音

がおさめられている。

飛鳥時代、そのあたりは聖徳太子の寝殿があって、その傍に建てられた堂は聖徳太子

が経典を写したり、幾日も籠って瞑想をしたりと、禅定して夢に入られる聖なる場所で

あったという。

そこは聖徳太子が世をよくするためにどうしたらいいかを考え、よりよい世界を作る夢を

見る場所であったのだ。当時の夢殿は焼失してしまったが、聖徳太子の等身を本尊と

する夢殿には聖徳太子の夢がいまでも息づいているように思う。

夢殿とは聖徳太子の夢そのもの。その夢の天まで澄んでいるというところに、

悠久の時を超えてその夢に思いを馳せる作者のロマンがある。

 

 


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